青屋神社と青屋祭
常陸国司は、都から着任すると鹿島神社に参拝するのがならわしであった。 国司が鹿島神社に参拝するには、高浜から船で行くのが順路であったが、荒天で出航不能のときは、高浜のなぎさにススキ、マコモ、ヨシなどで青屋(仮屋)をつくり、そこから鹿島神社を遥拝し参拝にかえたという。これが青屋祭の起こりといわれている。
中世の青屋祭は、「常陸遺文」の「鹿島大宮祭、高浜本宮青屋祭、府中総社宮青屋祭、大荒(大洗)磯崎青屋行事」の記録によれば、府中総社の宮祭の一つとして6月21日に高浜神社、大洗磯崎神社、鹿島神社などの津で、霞ヶ浦と鹿島灘の航海の安全と水産物の豊穣を神に祈願するため行われた。また、「税所氏神事口伝(税所文書)によれば、青屋祭のとき、舟塚山古墳を青野喪山(あおののもやま)と呼び幣帛を供している。この鎮魂神事によって霞ヶ浦の航海の安全を祈ったのであろう。近世の青屋祭神事は、「常府古跡案内しるべ」によれば、青屋の馬場と呼ばれるこのあたりで行われた。6月20日の深夜、2人の者が青ススキ、細竹で青屋(仮屋)をつくる。神拝は6月21日の午後4時から始まり、公家装束の税所氏と小仁所氏が侍姿の大勢の供をつれて参拝する。この間、馬場では神馬を走らせた。神拝が終わると税所氏と小仁所氏は高浜に移り、高浜神社に参拝した。
(昭和60年3月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会)
|