南北朝時代に常総における南朝方の拠点となって攻防が繰り広げられた難台山城にまつわる伝説が残されている県指定史跡「有明の松」に行ってみました。部原(へばら)、瓦会から大増方面に向かう県道42号線の道路に面して(バス停有明)記念碑が立っていました。この日は朝方に雷を伴う激しい豪雨があり、その雨が上がった直後で裏手の難台山には雲がかかっていました。(2010.6.5)
上の写真の奥の山が難台山(標高553m)である。少し雲がかかっているがハイキングにも人気がある。難台山は昔南台丈とも呼ばれており、約180年前の江戸時代に平田篤胤が書いた「仙境異聞」で寅吉が天狗に連れてこられ、最初に降り立った山でもある。
現在の松は、親木から採取した種子を発芽させたものであるとのこと。
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有明の松 (現地看板) この松の樹齢は明らかでないが直径1米あまりもある直幹、四方に張った大枝は常に天風に吟じ、行き来の人の目標ともなる見事な一本松であった。 この辺からすぐ東に見える難台山をめぐって、昔合戦があった。砦は山の東側にあり、頂上から西側は戦場にならなかったが、岩瀬、下館方面の味方から来る兵糧がこの辺からひそかに山道を運び上げるので夜になると小荷の往来がしきりであった。合戦は新緑の頃からはじめて、翌年の五月に終わったが、この一年間、力戦した城兵も、糧道を敵に探知され、西から来る糧米を途中で奪取され、遂に食つき、城主は戦死し、城は焼かれ、城兵の大半は敵の眼をかすめて逃げ去った。 城危しと見たその夜、城主は篭城していた婦女子を城から落とした。五〜六名の従者に守られた婦女子は、敵の包囲する東側を避け、山道を這い上がて頂上にたどり着き、それから闇の中を西に降りた。敵の追撃が恐ろしく、夜が明けるまでに里に下りたいの一心で、険しい山の降り道を手足を血だらけにして、ようやく平地にたどりつき夜明けを迎えた。敵の眼からのがれ、やっと安心し、道添にある大松の下で一休みした時、夜明けの空がさわやかであったので、自分等の行先も、この松にあやかり、長くたくましかれとの念願から有明の松と名づけてここを立ち去ったといわれる。
昭和41年3月7日県指定の天然記念物となったが、昭和55年松くい虫のため伐採された。 昭和55年12月 八郷町教育委員会 有明の松保存会 |