石岡市民会館へ向かう通り、右側に照光寺があるところの一つ手前を左手に曲がる。そこが旧木之地町である。少し進むと右手に愛宕神社の鳥居が見える。神社の裏手へ回り少し先には昔あった「上池」跡である広場にでる(スーパータイヨーの裏手上側にあたる)。市の歴史ウォーキングコースに選ばれたので、案内板は整備された。やはり「木之地のみろく」に興味を持ち訪れてみた。「木之地のみろく」は江戸時代に祭礼で記録が残っていた5〜6体の人形であるが、いつしかなくなっていた物を復活させたという。
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祭神は迦具土命。多くの神々を生んだ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が最後に生んだ火の神。創建時代は不詳。愛宕神社は、幸町の古墳の上にあり、そこから移されたものだと伝えられている。近世になると旧暦7月2日に愛宕の祭礼がおこなわれていた。風流物は、「子供踊」「ほうさい念仏踊」「富田のササラ」「木之地のみろく」「土橋の大獅子」などであり、また古記録によると、享保〜天明年間(1716〜1788)に町内を神輿が巡幸していたとある。水戸天狗党の諜将薄井龍之(たつゆき)が境内で私塾をひらいていた。 平成21年2月 石岡市教育委員会 |
木之地のみろく(写真は愛宕神社祭壇) 「みろく」とは、弥勒菩薩である。元禄15年(1702)に作られたといわれる木之地のみろくが、どのような姿をしたものかは明らかではない。江戸時代の祭事を記録した文書には祭礼の出し物として出されていたという。祭礼参加の記録では、嘉永4年(1851)が最後と思われていたが、地元の人が復活を願い、それから83年後の昭和9年に竹原の弥勒を参考にして総社宮の祭礼(年番守木町)に出し物として復活させた。それは、愛宕神社に古い一、ニ体の人形があり、破損を修理して数体の人形を作り、また数体を竹原よりお借りして、祭りに出したという。しかし木之地町は所帯が小さく昭和12年を最後に祭りの年番より脱退しました。何とか「木之地のみろく」を復活させようと平成16年に祭礼に合わせて木之地町の会所にみろく人形を飾っています。 |
上池
総社の付近には昔「上池」と「下池」と呼ばれる池が存在しました。木之地町の近くには「上池」があり、現在は公園(大きな広場)となっています。下池は総社宮のすぐ下(宮下町)に公園となった場所があります。総社のお御手洗(おみたらし)のすぐ下ですので、昔はちゃんと水が一杯にあったのでしょう。
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