▼茨城廃寺(バラキハイジ)▼ 

<歴史の里石岡ロマン紀行>


石岡駅を降りてすぐ左にまっすぐ進み、国道6号をそのまま横切ってさらに直進すると通称「高浜街道」にぶつかります。ここは貝地のT字路です。茨城廃寺の案内板の方向はこの辺りになるのですが、ここから先に案内板がなく入り口がわかりにくい場所です。この交差点のすぐ脇にある細い道(小さな車は通れるが、大型車は無理)を進んだすぐ先に「茨城廃寺跡」の看板があります(右写真:かなり読みずらい)。一体は発掘後埋められており跡形もなく、畑と住宅などになっています。さらにその先の道を曲がって竹やぶなどの脇道を進むと坂を下ったところに「小目代公民館」とちいさな神社があります。この先に市指定有形文化財「茨城廃寺の礎石」が残っています。茨城廃寺の礎石はこの他、清涼寺などにも残されています。

律令時代の常陸国は、11の郡に分かれていた。それぞれの郡には郡衛が置かれ、それぞれ寺院も存在したようである。石岡地方は、古代には茨城郡と呼ばれていた。茨城廃寺跡は昭和54年から3次にわたる発掘調査でその規模が明らかにされた。建立時代は、国分寺に先行しし、8世紀初期と考えられる。伽藍配置は、塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置している法隆寺式で約1町半四方の規模をもっていることが明らかになった。 発掘された土器の中には「茨木寺(ウバラキデラ)」「茨寺」の墨書銘があり寺院名が残されている当時の寺院は全国的にも数少なく非常に貴重なものである。国分寺・国分尼寺が建立される前の寺院は茨城郡ではここだけである。



 茨城廃寺の礎石はもともとはこの場所ではなく寺院廃絶後にここに運び込まれたものとかんがえられている。

 

 茨城廃寺跡と高浜街道の反対側に地元ロータリークラブが立てた茨城廃寺の五重塔の露盤が置かれていた。茨城廃寺の五重塔十の基壇は東西12.2m、南北11.5mであり、釘など一切用いない五重塔には塔の最頂部に露盤という心柱を通した石材の重さで重心をつけていた。ここに置かれている露盤は当時のものを再現したものと思われる。

 

 

この寺の名前は「ばらき」または「うばらき」である。茨城県の名前の発祥の地としての有力候補地でもある。高浜街道沿いのスーパーの前の道路沿いに「茨城県の茨城の地名発祥の地」という看板が立てられている。看板を探して近くを数回歩いたがこんな道路沿いにあるとは気が付かなかった。ほとんど字がかすれて読みずらくなっていた。常陸風土記に書かれている内容を紹介している。香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命(くろさかのみこと)が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。このことより茨城の名がついたとのこと。

茨城県名について<追記>2010.7.16

茨城県の県名の発祥の地として石岡は看板の設置もおこなっており、あまり異議を唱えるつもりもありませんが、時代考証をしていくとどうも無理があるように思われてきます。これは古代茨城郡の成立にかかわっているようです。茨城郡が最初に置かれたのは笠間の近く友部近郊の小原あたりと思われます。小原・うばら・いばらと連想させますので、これが本当のようです。郡のお役所を途中で石岡へ移したのです。移転した後にこの石岡が茨城郡のお役所の中心となったと思われます。従ってある時代以降はここ石岡が茨城の名前の発祥地としても間違いとは言えないと思います。もちろん茨(いばら)で城を築いたというのは考えようも有りません。「茨が生える」という説もありますが・・・。もちろんもともとこの地で生活していた佐伯などを、山猿で人ではないような解釈はやめてほしいものです。