大覚寺は親鸞聖人が越後に流罪(1207年)となって、受難の年を送っていたが許されて(1211年)京都には戻らず関東、特にこの常陸の地(1214年〜)で流布活動をおくっていた。越後は約7年間過ごし、関東では約20年間過ごした。親鸞聖人の足跡を残す記念すべき寺院である。浄土真宗の開祖・親鸞聖人の弟子
周観大覚が開山。
京都にある「桂離宮」を模して造園した庭園は「裏見なしの庭」として有名
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ここには「親鸞聖人法難の遺跡」の看板が掲げてある。大覚寺山伏・弁円は修験道の大家として久慈郡塔之尾に護摩堂を建てるなどして、徳を集めていた。弁円は、日ごとに親鸞聖人の声望が高まるのを快く思わず、ある日、弟子と共に板敷山の頂に護摩壇を構え、聖人を祈り殺そうと三日三晩待ち続けた。しかし、一向に聖人が現れないため、業を煮やして稲田の聖人宅を襲うものの、聖人に出会って害心を失い、山伏の身を捨てて門弟となった。当寺はその伝承を伝える寺院で、本堂は「出内陣」という特異な形式を持つ。また、背後にそびえる板敷山には、弁円の護摩壇跡などの旧跡もある。(真宗大谷派本山HPより) |
大覚寺山門(浄土真宗本願寺派 板敷山大覚寺)白壁が印象的 |
鐘つき堂
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名勝の庭園は、回遊式庭園の様式をとり、京都にある「桂離宮」を模して造園したもので、どの角度から見ても裏がなく「裏見無しの庭」と称され、珍しい草木が繁茂している。
昭和五十八年三月 石岡市教育委員会
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石岡市指定保存樹「板敷山大覚寺のヤブツバキ(藪椿)」 幹 周 : 1.53m
樹 高 : 13.3m 推定樹齢: 500年 このヤブツバキは樹齢五百年。樹肌に灰白色の地衣類がつき古色蒼然とした樹容は、老樹の風格がある。この樹の傍らには天蓋樹とよばれたクスの大樹があって、生育を阻んでいたことが推測される。 ヤブツバキは暖地の沿海地から山地に自生する常緑高木で数は減少している。現在観賞用に栽培される園芸品種の母種となった。二月から四月枝先に径五センチほどの花が単生する。古くから信仰の対象であり、一方で幹は建材に、種子からは油を得て利用した。ツバキの語源は一説には、つやつやしい葉の木から。花は色鮮やかなままに音を立てて地面に落ちる。 落ちざまに水こぼしけり花椿 芭蕉 平成14年3月 石岡市教育委員会
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親鸞聖人法難の遺跡 親鸞聖人が草案(稲田)を拠点として布教したときに八郷町と岩瀬町の境にある板敷山を往来していた。山伏「弁円」が親鸞を呪って祈念した護摩壇が今も残っている。弁円懺悔の地の碑もある。ハイキングコースとして整備されている。
弁円の歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
弁円は親鸞の弟子二十四輩の一人(19番明法房)として親鸞聖人の手となり足となり給仕を怠らず1252年に没している。
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ようこそ森林浴の道へ(板敷山)
八郷町北部の板敷山入口から林道をたどり吾国山を経て太田集落に下る散策コース。
コースの起点は林道大増線の入口であるが、付近には板敷山大覚寺がある。農家が点在する後には低い山並みがあり、里山の雰囲気を醸し出している。林道の登りが終わる頃には、筑波山、足尾山、加波山が一望でき、その眼下には八郷盆地が広がっている。
途中にハンググライダーの離陸場があり、飛び立つ様子を見ることができる。
吾国山洗心館、道祖神峠を経由し県道42号線(笠間つくば線)沿いに下れば、終点近くには善光寺があり、境内には室町時代に建立された楼門がそびえている。この楼門は木造建築では最古の部類のもので、国の重要文化財に指定されており一見の価値がある。
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板敷峠に建てられた石碑 「親鸞聖人法難之遺跡 板敷山」
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板敷峠のすぐ上に建つ「「山伏弁円護摩壇の跡」
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弁円「懺悔の地」石碑
弁円の歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」 板敷峠から大覚寺へ下りる道の途中にあるが、峠からの道は倒木などで歩きにくい。下の県道(64号線)側からの登り口から民家の間を抜けて少し登ると少し開けた場所に出る。この山側に碑が建てられている。現在板敷峠はこの県道64号線が昔の峠の少し西側を走っているのでこの道を歩く人もあまりいないのであろう。
親鸞聖人の弟子となった山伏弁円は明法房となり、聖人の関東布教のお伴をして各地を一緒に歩いた。ある時この道に来た時に昔、危害を加えようとしたことがあったことを恥、道端にうずくまってしまった。この時に弁円(明法房)が詠んだ歌とされる。
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