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▼日の丸の起源▼その2-日本船の旗印


日本船の「船印」として始まった「日の丸」の歴史

 太陽を表すとされる日の丸は、太陽信仰から生まれたものと一般的に解釈されておりますが、古事記などに見られる日本神話、その中心的存在である天照大神のイメージとともに語られてきました。やがて「日出づる処」、つまり「日ノ本」の国という概念が出来上がっていったと思われます。 この太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献を探すと、「続日本紀」(797年)の中にある文武天皇の大宝元年(701年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあります。これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。これについてはもう少し別の解釈を探してみました。この文武天皇の後、天皇が即位する際の飾りでは、正面に鳥形の幢、左右に日月像の旗を立てるようになったと伝えられています。「日月(じつげつ)紋]は太陽と月を象った紋です。太陽は天照大御神、月は月読尊を表していると言われています。この日月の紋のついた旗が「御旗」と呼ばれていたと解釈できます。つまり、その当時は太陽と月の2つをセットにして考えられていたのです。このように最初は太陽と月の2つの丸印を立てましたが、どちらが太陽か月であるかを区別するために、太陽を金で、月を銀で打つようになります。月を丸ではなく三日月にしたものも現れ、室町時代からは菊家御紋章を打つものもでてきて、皇室の現在の紋章となっていったものと思われます。

薩摩藩が日の丸の旗を作った?

 この「日像」の旗は現在の横長とは異なり、縦長の細い白地の布に、日の丸が描かれていたと伝えられています。現在の日の丸の旗が正式に採用されたものとしては、鹿児島の愛好家によるHPによると、「薩摩藩主島津斉彬(しまずなりあきら)が1853年(嘉永6)11月に幕府に大型船・蒸気船建造申請を行ったときに、日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言しました。これにより幕府もその必要を認めて、1854年(安政2)に日の丸を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した」と表現されています。 1854年(安政2)、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸の品川に入港したとき、日の丸が揚げられ、これが、わが国の船印として揚げられた最初のできごとだったのでした。それから日の丸は貿易の際、外国に対して日本の標識として必要不可決なものとなっていったと記載があります。これは史実では正しいでしょうが薩摩からみた日の丸の歴史と考えるべきでしょう。

御朱印船につけられた日の丸

 上に述べた日の丸制定の歴史は、正確にはもう少し前の時代にさかのぼる必要がありそうです。現在の通常郵便切手の初期のものとして、第1次昭和切手といわれる切手の中に昭和12年5月に発行された紫色の「御朱印船」(五厘)がありますが、ここには日の丸の旗を掲げた御朱印船が鮮やかに描かれています。

 豊臣期から徳川の鎖国令(1639年)までの間に行われた朱印船貿易。その船の船尾には、日本の船籍を表すものとして「日の丸」」の旗が立てられていたのです。                        
 これが、江戸時代になって幕府は「日之丸御城米積船」の旗印を、名前にもある通りに「日の丸」としました。正式には先の1854年に「日の丸」は島津藩の進言もあり幕府によって日本の総船印とされたのです。
 開国後初めて大西洋を渡った咸臨丸は、この「日の丸」の船印を船尾に翻して、堂々サンフランシスコに入港しました。「日の丸」は、西欧文明への扉を開けた時に、対外的に日本の国を表すシンボルとして自然に掲げられ、当時の日本人の目には反対の考えなどなかったのではと思われます。

1999年国旗・国歌法制化の時の説明

 小渕内閣の時に制定された「国旗・国歌法」の審議での自民党 橋本聖子議員(オリンピックスピードスケートとして活躍)の質問時の内容です。

 御承知のとおり、我が国の国旗日の丸、国歌君が代は、ともに遠く一千年以上も昔にその起源を持ち、歴史のあるヨーロッパ諸国のそれと比較しても、長い歴史と伝統を有しております。
 起源が古いだけではありません。日の丸・君が代は、この一千年の間、絶えず広く庶民の間で大切にされ、伝え続けられてきた歴史的事実があります。
 日の丸の意匠は、西暦七〇一年、文武天皇の朝賀の儀において使われたと続日本紀に記録され、以後、平安末期から戦国時代には武門の誉れ、正義の旗印として使われてきました。また、近世初頭に東南アジアへ雄飛した朱印船には日の丸の旗が翻り、江戸時代は専ら幕府の御用船で使われました。
 さらに、日の丸は、武家社会だけでなく、田植えの田楽などでも広く庶民の間に広まっておりました。古今和歌集に詠み人知らずで記載された君が代も、鎌倉・室町時代には神社仏閣の行事うたに、江戸時代には庶民たちの小うた、浄瑠璃、盆踊りうたなどに歌い込まれ、各層に親しまれたのであります。それは、京や江戸といった都市部だけでなく、遠い南海の種子島の祭礼歌にも登場するなど、全国各地に普及しております。君が代は、身分の分け隔てなく、地域の隔てなく、一千年以上にわたり我々の祖先が歌い継いできた、まさに祝賀の一大国民歌謡であると言えます。
 また、近代国家の成立とともに国際交流が盛んになる中で、この日の丸・君が代はさまざまな国際会議、スポーツの祭典でも国旗・国歌として内外にあまねく認知されてきました。 ・・・・・

この説明は一般的に言われていることを述べておりますが、日の丸を掲げ、戦争に突入していった時の暗い思いを抱いた人、また戦後の日本人としてのアイデンティティを否定された教育の下で育った人たちにいくら説明しても、源平合戦ほどの説得力はありませんね。もう少し源平合戦をもとに、この日の丸の歴史を考えてみたいと思います。

(続く)