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世界湖沼会議の記念講演(1995年)  江崎玲於奈


水は、疑いなく、われわれを取りまく環境において、最も重要な物質の一つであり、充分な質と量の水が確保できなければ、近代文明も危機に瀕する。しかし、われわれが知性と愛情をもって湖沼の活力と清澄さを保つべく真摯な努力を続ける限り、その水は周辺地域の住民と産業に大きな潤いを与え、その美しさは見る人の心を富ませて湖畔生活に情趣を添えるのである。

 1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユリ・ガガーリンは人工衛星ウォストーク1号で1時間48分で地球を一周し、史上初めて宇宙飛行に成功しましたが、そのとき「地球は青かった」と感動的な言葉を伝えました。太陽系の中で地球だけが、水を満々と湛えた海で表面の3分の2が覆われているから青く見えるのです。言うまでもなく、地球上で生命の誕生を見たのは、何といっても、水があったからです。

 天地創造のビッグバン(Big Bang)は、現在の宇宙論(cosmology)によれば100〜200億年前となっていますが、そのあと、今からおよそ45億年前、太陽系星雲が形成されました。その時の惑星の原始大気は主として水蒸気と炭酸ガスから成立っていましたが、太陽から1.1億・離れた金星は温度が高過ぎ水蒸気は殆ど失いましたし、太陽から2.3億・離れた火星は温度が低過ぎ全部氷になっています。太陽から1.5億・離れた地球だけが、丁度水蒸気が水になる地表温度になったので大量の水、即ち1380兆トンの水を地上、海洋、大気の中に蓄積することが出来たのです。

 そして、何よりも特筆すべきことは、やや偶然のなせる業であったかもしれませんが、この地球上に生命が誕生したことです。生命は成長、繁殖能力を備えた自律体であり、光、熱、音などの刺激に反応します。生命が地球に誕生したのは約40億年前と言われていますが、1980年、オーストラリアで発見された細胞の糸状の鎖は最も古い化石で約35億年前のものと言われています。

 生命誕生のメカニズムは未だ充分に分かっていませんが、先ず原始の海でアミノ酸、プリン(purine)やピリミジン(pyrimidine)の塩基などが、紫外線や稲妻による刺激に助けられて、炭酸ガス、窒素、水から合成され、これらの複雑な有機物質を素材として生命体が誕生したのではないかと言われています。生命体は宇宙の何処かから地球にやって来たという説もありますが、それは、生命体が如何に誕生したかの答えにはなりません。

 とも角、原始生命は酸素のない環境で生まれましたが、やがて、炭酸ガスを吸収して酸素を放出する緑色植物、光合成の作用をする生命体が現われ、酸素(O2)は地球大気の5分の1を占めるに至りました。そして、やがて成層圏オゾン(O3)層も形成され、それが太陽から来る紫外線を弱めてくれるので、われわれは地上で生活できるようになりました。紫外線はわれわれのDNAに損傷を与え、皮膚ガンを引き起すことがあります。DNAは遺伝情報を保持する生命体にとって不可欠の物質です。最近、オゾン層の一部に破損が見られ、その原因と見なされるフロンガスの使用が規制されるようになったことは周知の通りです。

 ところでオゾン層が形成されない時点でも原始生命が生まれ、進化することが出来たのは海があったからです。原始生命は紫外線が弱められる海の中で生活していました。そのためでしょうか、すべての生命体は水を欲します。そもそも、われわれの体重の約60%は水であり、赤ちゃんにいたっては大へん瑞瑞しく77%は水だそうです。

 われわれ自然科学者にとって、一般の人にとってもそうかもしれませんが、最も魅力があり、内容の充実した言葉は2つあり、1つは宇宙(cosmos)、もう1つは生命(life)です。勿論、この2つは自然科学の大きな研究対象であり、宇宙、あるいは生命体、の構造、組成、エネルギーなど、その本質を解明しようというのが、それぞれ物理系サイエンス(physical science)であり、生物系サイエンス(biological science)なのです。前者には物理学、化学、天体物理、地球物理などが属し、後者には生理学、病理学、遺伝学、発生学、生態学(ecology)などが含まれます。物理学は19世紀まで自然哲学と呼ばれ、この宇宙を構成する基本粒子や宇宙を支配する基本法則を研究の対象とします。Ecologyについては、この単語自身、ドイツの生物学者ヘッケルによる造語で、家を意味するギリシャ語、oikosを語源としています。エコロジーとは生物(人間を含めて)とその環境との関係を研究する学問のことですが、今回の会議の中心課題は湖沼のエコロジーなのです、と言った場合には自然(生態)環境を意味すると取って下さい。

 サイエンスを一口で言えば、観測と実験、それに論理的考察を加えて自然界の真実を理解しようとするのですが、その窮極の目的はこの大宇宙(macrocosm)と、われわれ人間、小宇宙(microcosm-宇宙の縮図)との結びつきを解明しようとするところにあると言えます。われわれを取り囲む世界とわれわれとの深い関係、エコロジーを理解したいという願望は誰にでもあるでしょう。

 水はわれわれの日常生活をはじめ、さまざまの産業活動にとって不可欠な資源であるだけに、湖沼はかけがえのない大切な財産なのです。現在、霞ヶ浦の水は年間約0.5億トンを50万人が水道水として使っており、農業、工業用水を合わせると年間使用量は約5億トンに達しています。水道水としては一人平均毎日約300リットル消費している勘定になり、これはアメリカ人の消費量と言われる毎日約100ガロン(約380リットル)に近い値です。

 1963年、閣議で決定され、1968年から建設が開始されたつくば研究学園都市は、今や科学者、技術者約12,000人の頭脳の集積が見られ、世界有数のサイエンス・シティとして発展を遂げましたが、近くに霞ヶ浦があったからこそ、その水源が確保されたことは忘れてはならない事実でしょう。

 天気が良ければ、機上から俯瞰する霞ヶ浦は大へん美しく人の心を捉えます。成田空港は霞ヶ浦の南、約25・に位置しますが、滑走路はほぼ南北に走っていますので、北風のとき、飛行機は筑波山を目指して飛び立ちます。アメリカ便の場合には、すぐに右旋回してLake pointsと呼ばれる霞ヶ浦(西浦)の南端をかすめて、鹿島灘に抜けますので左側に、ヨーロッパ便の場合にはそのまま北に向かいますので右側に、霞ヶ浦を眺めることが出来ます。

 人間は古来、自然との深い結びつきのもとに生活して来ました。縄文時代の狩猟採集生活の名残りが貝塚です。霞ヶ浦周辺にも貝塚遺跡が多く、それを線で結ぶと昔の海岸線が想定できるといわれています。特に、美浦村の陸平(おかだいら)遺跡は面積十数ヘクタールに及び日本最大級の貝塚です。
 弥生時代は縄文時代に続くもので、紀元前3世紀頃、大陸から水稲耕作の進んだ技術の流入と共に始まりました。弥生時代は3世紀頃に終りますが、日本の農耕社会は発展し、古墳時代と呼ばれる時期を迎えます。霞ヶ浦周辺にもこの時代に築かれた多くの古墳が残され、特に石岡市高浜の舟塚山古墳は全長186mの前方後円墳で極めて大型のものです。古墳の風習は7世紀の大化の改新(645年)の頃まで続きました。

 ところで、4、5世紀になると大和政権が日本本土の大半を統一し、7世紀にはいると次第に中央集権国家として律令体制を固めていきますが、蝦夷の住む東北地方、陸奥国は未だ制圧することが出来ませんでした。従って、この陸奥国と境を接する常陸国は大和政権にとって辺境の重要な戦略拠点としての役割を演じました。大和政権は農業の生産性向上を目指し、水稲耕作の推進政策をとってきましたが、この地方は農耕地として開墾できる土地が広く、また、海や山の幸にも恵まれ、その有様は奈良時代、8世紀前半に編纂された「常陸風土記」によって窺うことが出来ます。敢えて比べますと、19世紀以降、カリフォルニアはアメリカの西のフロンティアとして繁栄して来ましたが、古代、この常陸国は日本の東のフロンティアとして大いに活況を呈しました。更に付言しますと、現在のつくば研究学園都市はサイエンスのフロンティアに挑戦している一大拠点だといえるのではないでしょうか。

 ところで、その頃の霞ヶ浦は入江であり、「常陸風土記」には「流海(ながれうみ)」、「万葉集」には「浪逆(なさか)の海」という名で出ております。平安時代には鹿島灘の「外の海」に対し「内の海」と呼ばれて、その明媚な風光がめでられています。鎌倉時代になって詠まれた歌の中にはじめて「霞の浦」という言葉が表われ、これが「霞ヶ浦」の名の起こりでしょう。その頃の代表的な和歌は、例えば「春がすみ霞の浦をゆく舟のよそにも見えぬ人を恋ひつつ」(藤原定家)、あるいは「ほのかにも知らせてしがな東なる霞の浦のあまのいさり火」(順徳院)などです。

 どの湖も移り変りの歴史を背負っていますが、特に、霞ヶ浦はここ数百年の間、激しい変化を遂げ、現在の姿になりました。湖底の推積物にはその歴史が刻まれており、霞ヶ浦の淡水化(あるいは海水と淡水が混じる汽水化)は僅か200年前、18世紀だということを教えてくれます。

 勿論、この霞ヶ浦の変遷には人為的なものと自然の仕わざ、この両者が関係しています。前者としては江戸時代初期の利根川東遷工事が考えられます。徳川家康が江戸に入府したとき、江戸周辺の水害防止、湿地の農地化、水運整備などのため、当時、江戸湾に注いでいた利根川本流を旧常陸川を通じて銚子へ流す大工事を行いました。また、後者、自然の仕わざとしては、浅間山(1793年)や富士の大噴火(1707年)により大量の火山灰が関東一円に降り、それらの土砂が利根川などの河川により下流に運ばれ、霞ヶ浦の出口付近一帯を埋め立てたのが淡水化の始まりです。また、このため、常陸利根川の流水能力が減退し、霞ヶ浦周辺はたびたび洪水に見舞われています。勿論、最近、さまざまの治水工事が行われ、洪水氾濫を最小限に留める施策が講じられていることはよく知られる通りです。

 言うまでもなく、霞ヶ浦はその周辺の人間活動の影響を強く受けます。前述の「常陸風土記」が書かれた奈良時代、国府は現在の石岡市に設けられ、国府の役所、国衙(こくが)を核に東西、南北それぞれ約1・四方、ミニ平城京が建設されました。計画された人工の町という意味ではつくば研究学園都市に似ています。国衙は939年平将門によって焼き払われた歴史がありますが、江戸時代以前まで常陸国の行政の中心地でした。この地が国府に選ばれた理由としては、霞ヶ浦の水運の便に恵まれていたこと、筑波山を望む景勝の地であったことなどが考えられるでしょう。

 ところで、石岡市の北には千人位が働いていたと見られる大規模な鹿(か)の子遺跡があり、8-9世紀、蝦夷征討のための鉄製武器などを生産した工房群跡と考えられています。同遺跡から出土した漆紙文書によると、当時、常陸国の人口は約20万、国府には約2万の住民がいたということになっております。現在の茨城県(約6000・)は、常陸国とほぼ同じところを占めており、最近の総人口は約300万人ですから、1200年の間に15倍位になった勘定です。人口密度にすれば、1平方・当り33人から500人に増加しました。一般的に、人口増加はエコロジー(自然環境)の悪化に結びつきます。

 歴史を調べることにより、人間が過去に冒した過ちからさまざまのことを学ぶことができます。過去において、森林の伐採、野鳥獣の乱獲、土地の不毛化など、取り直しのつかない状態まで、生態環境を破壊したため、終焉を迎えた文明が数多くあります。その一例として、南米チリから約3800・西、太平洋上の孤島イースター島の文明が挙げられます。そこにはポリネシア系の原住民が築いた巨大石像群がありますので、古くから多くの学者に興味を持たれていました。今日イースター島は不毛であり、原生の木も野鳥も見当りません。ところがポリネシア人達が漂着した西暦300年頃、この島は熱帯林で覆われた緑の楽園でした。植民者達は、嬉嬉として、野鳥や海鳥やヤシの実を食べ、木を伐採して開墾し、その木で作ったカヌーで大海に乗り出しては魚やイルカを捕獲して生活していました。また、ヤシの木は、運搬のためのローラーやレバーに使い、巨大石像も建立しました。

 しかし、この初期の豊かな環境のため、人口は爆発的に増加し、1平方・当り60人以上になった頃、エコロジーの破壊が始まりました。島の木は使い果たされ、木で覆われることがなければ表土は侵食されて農業の生産性は減退し、野鳥は絶滅、やがて人口も激減して特有の文字(現在解読不可能)を持った文明も滅びてしまいました。ここは、絶海の孤島で他の島との交流がなく隔離されていますのでエコロジーの崩壊の過程は明瞭です。イースター島は小さく、面積は163平方・、霞ヶ浦(西浦)の面積176平方・に近い大きさです。もし、この島に定員のあることに気付いた賢人がおり、産児制限による家族計画をやっておれば、この文明の崩壊は免れたかもしれません。他人ごとではなく、この地球にも定員があることをカトリックの本山、ローマ法皇にも知って戴かねばなりません。定員以上はエコロジーの悪化を招きます。

 イースター島と同列には論じられませんが、霞ヶ浦のエコロジーも周辺地域の人口の増大と産業の発展と共に悪化して来ました、CODは水の汚れの一つの指標(1リットルの湖水中に含有する有機物を酸化分解するときに要求される酸素量をミリグラムで示したもの)ですが、1973年、実は、筑波大学が創設された年、この値が、7.5を記録し養殖ゴイが大量に死んでいます。1979年にはCODが10.6まで上昇し、アオコが大発生しています。この頃から水質が悪く、子供達は霞ヶ浦で水泳しなくなりました。嘗って、私達が「霞ヶ浦の自然」と言っていたものが「霞ヶ浦の環境」と呼び名が変りましたが、更に「霞ヶ浦のゴミ捨て場」などに成り下っては大へんです。この湖の汚れの原因は、生活排水43%、畜産12%、コイ養殖7%、工場、事業場3%、山林、農地などからの汚濁が35%となっています。CODの値を下げるには、排水の浄化に多くの人の英知と協力を必要としていることは明らかです。

 戦後、印度など第三世界を中心に食料生産の向上を目指して始められた緑の革命(green revolution)と呼ばれる農業技術開発事業があります。確かに、農作物の収量を飛躍的に増大させましたが、この技術は肥料や殺虫剤を大量に使うので、河川や湖沼、海洋を広範囲に汚染する結果になりました。わが国の農業も可成りの程度、肥料や殺虫剤に依存しているようです。私のつくばの住いのすぐ裏は田圃になっていますが、いつかヘリコプターが私の家の極く近くまで殺虫剤を散布したのには閉口しました。

 終りに当り、最も重要な課題、科学・技術とエコロジーの関連に触れねばなりません。とも角、近代科学が創り出した知識は極めて優れた技術のノウハウを生み出し、われわれの現代生活はこの科学・技術に全面的に依存しています。例えば、経済発展、生活環境の改善、アメニティ、保健、医療の充実、天災、人災からの安全の確保などを含めて、要するに生活の質の向上に科学・技術のノウハウが大いに貢献しているのです。勿論、大規模な技術開発には緑の革命のように、前もって予想できない影の面を伴い、エコロジーの破壊に手を貸すことがあります。しかし、汚染を調査しエコロジーの改善を計るのもまた科学・技術の重要な役割なのです。

 21世紀に向い、農業においても、エコロジーを守りながら収量を増加する、より高度な第二の緑の革命が求められています。四季折折の自然の営みを眺めますと、リサイクルは徹底し、無駄な廃棄物は一切出しておりません。これを真似た工業社会がわれわれの理想とするところでしょう。その実現には、高度な科学知識と、先端技術のノウハウを最大限に活用せねばなりません。考えてみますと、われわれの計画や政策は自然のスケールから見ますと、とかく短期的です。長期の展望なしにはエコロジーの問題に対処できないと言うことを最後に強調したいと思います。