子規の宿

 正岡子規は明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で水戸の学友菊池謙二郎の実家(千波湖脇)を訪ねて本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで徒歩で(一部人力車に乗っていますが)旅行しました。本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代で1泊(銚子屋)しました。当時2軒しか旅館がなく夜も寒くて早く寝たが枕が堅く寝心地は悪かったようです。翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。雨で寒くて気分も滅入っていたので、宿の待遇に大いに喜んで下記のように記述しています。

「・・・筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・・・・・・・・・・・はたごやを出でんとするに家婦いはく 水戸へおいでにならば御定宿ありやと 余なしと答ふ さらば何がしといふ宿へ行き給へ おろそかには取扱はじといふ 案内状まで添へければそを受けとりてこゝをいで行くに筑波山は昨日のけしきに引きかへていとさやかに見られける」

3日目は石岡-長岡-水戸上市へ行き、萬屋で紹介してもらった宿屋に入ったが待遇が悪く腹を立てて宿を替わっています。当時水戸は東北線小山経由で鉄道が走っており、徒歩で街道を旅行する人も減ってしまい、靴も履いていない汚い学生は相手にされなかったようでもあり、当時の様子も感じられて面白い。(水戸紀行の全文はこちらを参照ください)

この水戸紀行の途中雨が降り、帰路は上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規が若さにまかせての無理な徒歩旅行であったようです。帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています(自身、水戸紀行の前文で紀行文を書く動機として述べています)。この紀行文を書いたのは帰京後半年後の10月であった。この時から「子規」(血を吐くまで啼くといわれたホトトギスの異称)と号した。東京上野の子規庵に住んだのはは明治27年から35歳で没する約10年間です。実際の発病は子規庵に移った翌年の明治28年に日本新聞の社員として日清戦争の取材で大連に渡った時に喀血し、神戸に戻って入院療養するようになるのである。

さて、水戸紀行の書かれた明治22年には現在の常磐線(旧国鉄)はまだ走っていません。当時は明治18年に東北本線が大宮−宇都宮間に開業し、明治20年に水戸−小山間に水戸鉄道が開通した。友部−土浦間の土浦線開通が明治28年で、この時に石岡駅が開設されています。その後東京田端−土浦間の鉄道開通は明治29年12月です。これにより現在の常磐線の上野−水戸間がほぼ開通しています。しかし、目的は常磐炭鉱の石炭の輸送が最大の目的でした。正岡子規が水戸へ旅した時は水戸は東北線と鉄道でつながっていましたので歩いて旅する人は少なかったものと思われます。一方石岡はまだ鉄道が通じていなかったため、宿も徒歩での旅行者の待遇を重視していたものと思われます。また、石岡へは東京−高浜間に汽船(高浜汽船)が就航しており、鉄道開通前までかなりの繁盛が記録されていますが、明治25年に事業解散せざるを得なくなっています。

明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)の昭和52年発行された影印版を先日古本屋さんから入手しました。ここに明治34年当時の常磐線石岡停車場の時刻表が載っています。上野-仙台(または平など)間を上下7本づつ列車が走っています。朝7時〜夜7時半頃までです。ここに載せられている旅館の広告を拾うと

「香取屋」(本店:陸軍御官衛御用旅館、商店銀行員御宿館、糸繭商店宿・・・石岡警察署真向 香丸町)(第一、第二支店:温泉・・・上州草津温泉開始仕り候、石岡停車場前)

「勉強旅館:橋本平八」(常州石岡町):陸軍御用軍用旅館、繭糸蠶(かいこ)種各御商人御定宿

「旅館:萬屋増三」:四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)

となっています。当時が偲ばれます。(2008.7.12追記)

石岡の「萬屋旅館」は中町の街道沿いにありました。現在の駅前の八間通りの突き当たりの少し左側にあったようです。現在のピノキオトーイという玩具屋がその場所であると思われます。1979年発行の柳生四郎氏解説による水戸紀行 (ふるさと文庫)によると、同じ通り沿いの橋本屋旅館(現在:ホテル橋本楼)さんのご主人橋本平八郎氏に教えていただいた場所がピノキオという人形とおもちゃの店のところであると書かれています。当時の宿賃は50銭くらいで、宿では当時客に着替えは出していなかったとのことです。

(2008.05.19記)

(追記)先日元太平堂書店さんの息子さんで写真集『いしおか昭和の肖像』を出版された今泉文彦氏のブログを読ませていただいていたら、萬屋は現在のカギヤ楽器さんのところで、元は鍵屋玩具店さんであったと書かれていました。こちらが正解なのか?? (2010.10.2)

 

正岡子規は、石岡に泊まる前に土浦を通過しましたが、楽しみにしていた霞ヶ浦が見られずにがっかりします。しかし土浦の街のはずれである真鍋地区にある高台に公園があり、ここに登って霞ヶ浦が一望でき大変喜んだと書かれています。現在この真鍋公園はないようです。地図で調べてもわかりません。近くの真鍋小学校は校庭の桜の木が天然記念物に指定される程有名ですが、学校は明治10年の創設ですが、明治40年に現在地に校舎を移築し、桜の苗木を植えたとなっていますので、この小学校はこの公園の敷地に建ったのかもしれません。ネットで探してみたところ右の写真(絵ハガキ)がありました。明治40年頃のものとのことです。また、先の柳生四郎氏の解説本にも写真がでております。この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。但し、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。また近くの土浦一校も明治30年の創設ですので、子規が旅行した時にはまだありませんでした。

<追記>本HPに子規の記事を載せた2007年秋にはこの真鍋公園の記事はほとんど見つけられない状態でしたが、土浦市博物館(亀城公園内)の展示室便り「霞」に2008年4月号にこの公園(総宜園)のことを紹介しています。これによると当時は桜の名所であり、昭和7年の国道工事で消滅したとのこと。場所は土浦側から坂を登る左手側の高台で愛宕神社と並んであったという。また近くの真延寺で正岡子規の句碑

霞みながら 春雨ふるや 湖の上

が建てられ、2009年11月23日に除幕式が行われたとのことです。

石岡を出た時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかいます。

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き

・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體

(2010.05.01 記)

[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より

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