常陸から見た日本の夜明け

 4世紀中頃に成立したとされる大和朝廷はその成立に関し、未だに謎が多く残されている。邪馬台国との関係も明らかになっていない。今から1660年位前のことである。邪馬台国の女王卑弥呼が死んだのは248年頃と見られている。中国の「魏志倭人伝」に記載された内容から、対馬から水行十日、陸行一月の行程の日数の解釈によりその場所が特定されていない。石岡の歴史を調べていくうちに私は不思議な感覚におそわれた。それは鹿島神宮の創建時期とその建立されている位置についてである。鹿島神宮の創建は神武元年(紀元前660年)とされているが、当然これは神話に基づくもので本当とは思われない。しかし、日本書紀や古事記に書かれた神話の中でも重要な地位を占めている。昔は太陽は絶対的な崇高なものとされていたことは今でも想像するに難くない。太陽が最も力強い生命力を与えてくれる夏至(6月20日頃)の頃の太陽の動きを考えて見よう。(これは間違っていることが判明しました。下記に訂正コメント記載)鹿島神宮より西南23.4度の線(地軸の傾き)を引くと、この下に「皇居」「明治神宮」「富士山」「伊勢神宮」「吉野山」「高野山」「剣山(四国)」「高千穂(宮崎)」とが並ぶのである。高千穂に降り立った神々(人々)は、太陽が昇る日の出の方向に何かを感じたに違いないので、日出る地を求めて夏至の日の出の方向に日本列島を進むのです。まず四国剣山の上から日が昇る。山の上に昇ると、四国は徳島の阿南から一番先に日が昇るのです。さらに阿南に行くとその先の陸地から日が昇ります。そこが吉野山です。吉野山から眺めて日が昇る場所は伊勢です。伊勢にある二見浦の岩の間に富士山から日が昇るのが丁度この夏至の時期です。そして富士山から眺めると日本で最初に日が昇る場所が鹿島なのです。これは偶然の一致でしょうか? もちろん神=天皇の歴史として神話(日本書紀等)は作られてきましたので、高千穂に最初に神が降臨されたというのは、大和朝廷ができた後に作られた物語であることは間違いないと思います。しかし、これは日本全土を統一するために神道を広め、民族の統一を図るために必要な事柄であったものです。この民族の統一に鹿島神宮の役割は大変密接に係わっていたと思われます。下図を見て下さい。昔の人々、特に占いで人民から厚い信頼を得ていた当時の権力者達にとって、この夏至の頃の太陽の昇る方向に何か特別な力があると考えたとしても不思議はありません。今のような明かりのない時代に太陽がどのような存在であったのかを考えるととても興味深いといえるのではないでしょうか。

(訂正(2011.10.29):地球は球体ですので、平面地図に直線を引いても、これだけ長い距離では同じ日の太陽の軌跡にはなりません。また赤道上から角度をあわせていないので、23.4度もこの地図上では意味がありません。最近は写真を撮る人のために日の出、日の入を表示してくれるソフトがあり、これにより、概算の日の出の方向を確認しました。するとこの直線(本当は上に凸の円弧)に近い日の出の日時は、夏至の頃ではなく5月5日〜15日頃になります。これは下記地図上の直線の左(西)側から右(東)側にかけて追いかけて行くと、日の出の日時が少しずつ変わってきます。当然活火山でもあった霊峰富士の上に登って日の出方向を確認したとも思えませんので上記の考えは、このような日の出方向に向かって進んだのではないかとの仮説に過ぎません。

逆に、鹿島に陸路または海路で降り立った人々が富士山に日が沈むのを眺めていたとすると、これは2月4日の立春に当たるとご指摘を受けました。ご指摘感謝申し上げます。)

(本図は直線を引いてあるが、同じ日の日の出のラインは大きな円弧状となるはずで、正確ではありません。あくまでも簡易的なものです。また上記訂正コメントの通り夏至のころではなく1カ月以上前の時期の太陽の動きとなります。 2011.10.29訂正)

 一般に、これらの霊的な場所の直線は「レイライン」と呼ばれています。このレイライン(Ley line)は太陽の道という意味であり、霊的なパワーを感じるスポットが並ぶといわれています。イギリスの考古学者アルフレッド・ワトキンス氏が1921年に提唱したもので、「ナスカの地上絵」などの直線性の説明などにも用いられています。しかし、日本のこのように長い距離の直線はあまり類を見ないものではないでしょうか。

 太陽昇る(日の出)方向と沈む(日の入)方向について少し右図で説明してみます。地球の地軸は約23.4°傾いて回転しています。このため夏至(6月20日頃)の頃の太陽は北東約23.4度方向から昇ります。そして西北23.4度方向に沈みます。春分・秋分には真東より昇り、真西に沈み、冬至ではやはり23.4度南にずれた位置より昇って沈みます。太陽が昇る高さは夏至が最も高くなり、夏至の太陽が最もエネルギーにあふれています。昔の人もこの太陽のエネルギーを神聖なものとして受け止めていたに違いありません。日本列島は大和朝廷の頃は東北地方や北海道は蝦夷であり、常陸国までが勢力範囲でした。九州から関東までの日本列島は面白いことに丁度この地軸の傾きと同じ方向を向いています。

 2世紀後半から3世紀中ごろまでは北九州(?)に女王卑弥呼が統治していた邪馬台国(その他、末盧国、伊都国、奴国などが)があったと考えられています(諸説ありますが現在の最も有力な説はやはり北九州でしょう)。魏志倭人伝(三国志の時代)によると3世紀前半には邪馬台国の最大のライバルとして男の国王の国「狗奴国(くなこく)」があったとされています。この狗奴国はおそらく南九州(熊本)にあったのではないでしょうか。この魏志倭人伝に書かれているのは主に九州一帯には多くの諸国があったと思われます。卑弥呼が死ぬとその後男王が就くが国が乱れて13歳の壱与(いよ)が女王に就き、乱れは治まるのですがその後の大和朝廷の誕生まで100年〜150年が謎に包まれています。そして大和朝廷が誕生して日本は現在の天皇家が代々続くことになります。古事記や日本書紀には最初の天皇として「神武天皇」が日向国(宮崎県)の高千穂から東征し、紀元前660年2月11日に大和橿原の宮で即位します。そして斎場(まつり場)を鳥見山(桜井市東部?)に造営しました。これが伊勢神宮へと発展していきます。しかし、この神武東征は後から神話として作られたもので、どこまでが歴史的な史実に基づいているかははなはだ疑問といわざるを得ません。(橿原から伊勢はほぼ真東です)

 古事記や日本書紀が編纂されたのは7世紀後半から8世紀前半にかけてであり、大和朝廷が成立後300年程たっていますので、1000年以上も前の天皇の誕生については作り話であると考えるのが普通でしょう。さて、では何故神が最初に降り立ったのが日向国高千穂なのでしょうか?高千穂は邪馬台国の中心でも、狗奴国でもなく、九州のほぼ真ん中にあたる場所です。ここに降り立った神(天皇)が「日いずる国」を統一するために夏至の太陽の昇る方向へこの壮大なレイラインを追い求めて東へ進むと富士山を越えて、東端が常陸国鹿島神宮となります。ここが日本の日の出る最初の場所となるのです。

 さて、当時の中国と日本の位置関係を見てみましょう。魏志倭人伝の書かれた三国志の時代の中国の都である洛陽や長安(現在の西安)から日本の位置は上の地図に表わしたように真東にあり、大和(橿原)や伊勢神宮がちょうど真東の線上に位置します。この線の下に対馬があります(魏志倭人伝などでは、当時日本へやって来るには対馬を経由していた)。聖徳太子は隋への書簡で「日出づる国の天子、日没する国の天子の送る」と日本の立場を表わしています。当時は特に、日の出の方向は重要であったのです。

■ 国譲り神話と鹿島神宮

 鹿島神宮の創建は紀元前660年の神武天皇の即位の年となっておりますが、実際は4〜5世紀頃ではないかと推測されます。鹿島が大和朝廷にとって北の蝦夷との関係より国を守る非常に重要な場所であったと考えられています。まず、一つは神話に出てくる出雲の国譲りにまつわる話です。この話の概要をまとめてみると概ね次のような内容です。「高天原(天上世界、日向?)の天照大神は、出雲で勢力を得て地上世界(葦原中国:あしはらのなかつくに)をまとめていた大国主に、国を明け渡すように数度にわたって神々を出雲に送られましたが、出雲方に懐柔され、何も復命して来ませんでした。このため、業を煮やした天照は、最も力の強い武甕槌(タケミカズキ:鹿島神宮の神)と経津主(フツヌシ:香取神宮の神)の二武将を出雲に乗り込ませます。このニ武将が出雲の伊那佐(いなさ)の浜に剣を突き刺し大国主に国譲りを迫りました。大国主は息子の事代主(コトシロヌシ)と相談するようにいいます。その時、釣りをしていた事代主に国譲りを迫ると、事代主は承知し自害し(お隠れになり)、国譲りがなされました。しかし、大国主のもう一人の息子(末子)武御名方(タケミナカタ)はどうしても承知せず、武甕槌と千引石(ちびきいわ)を引っ提げて力比べを挑みましたが、武御名方は投げ飛ばされて科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ:現在の諏訪湖)に逃げて追い詰められ、とうとう降参し、そこからどこへも出ないことを約束して、命を助けられます。天照大神はこの大国主の国譲りに対し感謝し、大国主を祀るために出雲大社をつくり天照大神の第二子である天穂日命を大国主に仕えさせた。この天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職につき、現在まで踏襲されています。また、諏訪に逃れた武御名方は諏訪大社に祀られたのです。

 諏訪大社上社本宮は鹿島神宮のほぼ真西に位置します。春分・秋分の日の太陽は鹿島から昇り、諏訪大社に沈みます。国譲りの話と考え合わせると何か不思議な気がします。これは偶然の一致とは言えないと思われます。鹿島神宮と香取神宮に日本の神話で最も強い武神を祀っているのも大和朝廷がこの常陸の地を、蝦夷に対する守りとして重要な地であったからに相違ありません。ところで常陸の名前については茨城キリスト教大学の前学長「志田諄一」氏の説によると「はじめは「常道」と書いたが、これが「常陸」と書くようになった。これは常道と書いていた時には東北地方は「道奥」と書き、常陸になったときに「陸奥」と書くようになったとのこと(石岡の歴史より)。当時(大和朝廷の時代)、東北地方は蝦夷人の地で大和朝廷が支配できていない土地でした。従って、絶えず北の蝦夷からの侵略を恐れており、常陸国は、この奥州とじかに接する重要拠点であったのです。また、鹿島地方は砂鉄の産地としても重要であったと言われています。鉄器時代が始まり(6〜7世紀頃?)、この鉄が大和朝廷では大変重要な武器として欠くことができないものであったと推察されます。また茨城の語源として考えられている「常陸風土記」(8世紀始めの編纂?)の記載では、「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。この敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられた。」となっています。当時この香島の地(常陸)には、砂鉄などを採取する原住民(蝦夷)がおり、これを大和朝廷より派遣された黒坂命(くろさかのみこと)が討ち滅ぼしたのでしょう。

■ 中臣鎌足(なかとみのかまたり)

 西暦645年に起きた「大化の改新」は中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足の力を得て、当時豪族として政権を掌握していた蘇我氏を滅ぼし、天皇家に権力を取り戻し、新たな政治制度をはじめた改革ですが、この中臣鎌足(後の藤原鎌足)は鹿島(常陸)の出身ではないかと言われています。奈良に鎌足生誕の地という所があり、一般には奈良の出身とみられています。しかし、中臣氏は朝廷の祭祀を司る常陸国の祭祀者であったのではないかとも考えられています。鎌足の父御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣されたとも言われています。ここで興味深いのは中臣氏は神と人との間を取り持つ忌人ではないかということ。また、この中臣氏は九州で朝廷の祭祀を司る氏族として繁栄し、神武天皇の大和への東征で一緒に大和へ移動し、大和朝廷の側近となったが、4世紀に大和朝廷の領地拡大のため常陸仲国造として派遣されたのではないかと考えられていることです。もともと中臣とは「神と人の中をとりもつ」との意味ではないかと考えられます。また、この鎌足(もとの名は鎌子)という名前は鹿島にある鉄(砂鉄と製鉄技術)が大いに関係しているのではないかと思われます。中臣鎌足はその後、天智天皇のもと朝廷の最高位に昇ります。そして死の直前に藤原の姓を賜わることになります。その後、藤原氏は政権の中枢として大いに繁栄していきます。

■ 春日大社

 この藤原氏の氏神である奈良の春日大社は、平城京の守護の為(藤原氏の権力を誇示するため?)に768年に創建されました。春日大社の第一殿は鹿島神宮から、第二殿は香取神宮から、また第三、四殿は大阪府枚岡神社から、春日の地に迎えられた神々が祀られています。特に鹿島神宮との関係は強く、鹿島神宮の武甕槌命(タケミカヅチのミコト)が春日山(御蓋山)の頂上に白鹿の乗って降臨し、国土安穏、国民繁栄を祈り祀ったのが春日大社の創始といわれています。ここに、藤原氏(中臣氏)と鹿島(香島)の関係が非常に強かったことがうかがえます。春日大社は、中臣氏の元々の氏神(鹿島神宮の神)である武甕槌命を第1の神として祀っているのです。

■ 奈良の鹿について

 もともと奈良の地には自然の日本鹿が多くいたとも言われておりますが、白鹿は神の使いとみなされており、各地でさまざまな伝説が伝わっています。まず奈良の春日大社ですが、鹿島の武甕槌命が白鹿に乗って降臨した(768年)とされています。奈良に鹿が多くいたことは7世紀後半から8世紀後半に詠まれた歌集「万葉集」にも鹿の啼く様子が、詠まれていることから推察できます。しかし、鹿島神宮でも鹿の歴史は長く、現在は神宮の鹿園(ろくえん)には神の使いとして親しまれている30数頭の日本鹿が飼われています。鹿園の説明書きによると、出雲の国譲りの際に、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿が神の使いとされているとのことある。また、前に述べた「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。(この鹿の移動は陸路で送られたようです。鹿島神宮の説明板によれば、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っていると書かれています。したがって、奈良地方にも元々鹿は棲んでいたが、少なくとも春日大社には鹿島神宮の鹿が渡ったと考えられると思います。また、鹿島(香島)が名称である鹿の字を書くようになったのは古く、養老7年(723年)頃といわれておりますので、春日大社創建より古いですね。この鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると現地の説明板には書かれています。また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。

■ 清酒「白鹿」について

 また灘の清酒「白鹿」のいわれは「中国の唐の時代(617-917年)、玄宗皇帝の宮中に白鹿が迷い込み、仙人によりこの白鹿が千年前から生きている鹿であると看過されました。またこの鹿から1000年以上前の漢の武帝時代の銅牌が発見され、それ以降白鹿が大変愛養されたとの故事により命名されました」(辰馬本家酒造ホームページより抜粋)となっています。しかし、灘の「白鹿」に対し、常陸国府であった「石岡」にも清酒「白鹿」があります。同じ名前ですが、石岡も古くから水の名所で酒造りも古くから行われてきました。「白鹿」の名は元禄年間創業の白鹿醸造本店の先祖が鹿島神社に詣でた際、白い鹿に乗った神人が夢枕に現れて酒の製法を伝授したという言い伝えによっています。この石岡の清酒「白鹿」が、有名な灘のお酒と混同しやすいとのことで、昭和29年に灘のメーカより「白鹿」の名称差し止めの訴訟が起こされました。この時、歴史の古さが法廷の焦点となって約15年間争われましたが、結局石岡の方も古くから使われていたことが判明し、石岡の勝訴となりました。もっとも、灘のメーカに比べ石岡の清酒会社はあまりにも小さく、勝ったというよりは、ラベルに「白鹿」の名称を使うことが許されたというところでしょうか。現在では灘の清酒は「黒松白鹿」と縦文字のラベルが使われ、石岡の清酒は「白鹿」と横文字のラベルが使われるようになりました。これによって二つの清酒メーカが区別できるということになった訳です。現在石岡の「清酒白鹿」は江戸時代から続いてきた地元の4つの蔵元が1972年に合併し、石岡酒造(株)にて販売されていますが、現在は新高級ブランドに力を入れており「大吟醸 筑波 紫の峰」などが大変好評となっています。是非江戸時代より続く関東の酒の産地石岡の清酒も味わってみて下さい。

■ 高浜入り江からの筑波山

 右の地図は筑波山から石岡方面に東南方向に23.4度傾けた線を引いたものです。これによると夏至の6月20日頃、高浜の入り江あたりからみて、筑波山に夕日が沈みます。石岡の国府からは筑波山より少し北側の加波山との間に沈み、筑波山に日が沈むのは夏至よりも1月前後ずれた時期になります。茨城百景に「高浜の入り江から見た筑波山」が選ばれています。男体山、女体山の2つの頂の間に沈む夕日は本当に素晴らしい風景です。お勧めポイントは高浜少し手前の恋瀬側に架かる橋上です。日が沈む方向は「死」を示す方向かもしれませんが、死者が眠る方向も尊いのです。参考までに、徳川家康の眠る日光は徳川御三家の水戸藩からみて丁度この方角です。これも方角がたまたま一致しているとばかりは言えないのではないでしょうか。

■ 石岡(常陸国府)と鹿島神宮

 現在の石岡(元の府中)に常陸国府が置かれたのは大化の改新のすぐ後で、7世紀半ばです。当時すでに鹿島神宮は存在し大和朝廷より国造が派遣され統治されていたと考えられます。また高浜側の台地には5世紀後半に作られた東日本で2番目に大きな「舟塚山古墳」があり、当時から大きな豪族が住んでいたことを窺がわせます。また石岡の高速道路建設時に発掘された「鹿の子遺跡」からは8世紀半ば頃の蝦夷征伐に必要な武器などの工房跡が見つかっています。これらは一体何を示しているのでしょうか? 昔、現在の霞ヶ浦は「香取の海」と呼ばれる大きな内海で、利根川が江戸時代に江戸湾から銚子沖に流れが変えられて、今の手賀沼や印旛沼などができたことや、江戸の前までは江戸は湿地帯で人の陸路の通行はかなり困難であったと考えられます。一方千葉県の東側には安房郡があり、元々徳島の阿波地方の人々が黒潮に乗って船でやって来たと考えられており、昔の人でも舟で東海の海岸に沿って移動していたと考えても良いのではないでしょうか。西暦600年には中国に遣隋使が派遣されているのですから。また、常陸の北部まで(四国の特に阿波)の人々の足跡が感じられます。例えば栃木県と茨城県の県境に建つ「鷲子山上神社(とりこのさんしょうじんじゃ)」の創建は807年ですが、ここには徳島の紙漉きの技術が伝えられています。また千葉の「安房国」は718年に古東海道に加えられていますが、阿波国より麻が伝えられ、麻=総となり房総、上総など言葉の由来となっています。さて、国府にとって常陸一ノ宮である鹿島神宮はどのような関係にあったのでしょうか。まず都から派遣された常陸の介などはこの一ノ宮にお参りしなければなりません。高浜から舟で香取の海(霞ヶ浦)を鹿島へ行くのです。しかし、天候が悪いと舟が出せません。浜に仮殿を建て、そこでお参りしました。これが青屋神社(現高浜神社、石岡市内の総社近くにもある)の始まりです。この高浜神社の看板は江戸無血開城の立役者「勝海舟」の一の弟子、「山岡鉄舟」が書いたものです。戊辰戦争中には西郷隆盛と勝海舟の会談も行われたようです。歴史を知るとその場所の見る目が変ってきます。また、この石岡と鹿島をつなぐもう一つの存在は「親鸞聖人」が度々通った道であるという事実です。この地方のあちこちにその足跡が残されています。大覚寺、本浄寺、爪書き阿弥陀堂、如来寺、無量寿寺(鉾田町)などです。稲田(笠間市)の草庵より度々石岡-高浜を通り鹿島神宮に通っていました。当時、仏教の書物などは鹿島神宮に集まっていたためです。このような足跡をたどってみるのも自分達の昔の懐かしい記憶に結びつくような気がします。

■ 利根川の東遷(江戸時代)

今から1000年前の霞ヶ浦地方を考えて見ましょう。右図は利根川を中心とした1000年前の地図です。この頃は霞ヶ浦は手賀沼・印旛沼と一体となった大きな内海(香取の海)となっていました。利根川は現在の東京湾に注ぎ、常陸川が香取の海に注いでいました。現在の利根川は徳川家康の命により江戸時代に60年かけて常陸川へ流れを変え、銚子へ流れるようになったのです。これにより急速に下流に土砂が堆積し陸地化が進んだのです。1000年前はまだ大きな水域ができていたのです。ここで重要なのは鹿島神宮と香取神宮の位置です。この二つの神社は当時香取の海と呼ばれた水域の入口部の両側に建っています。当時は陸路よりも水路での移動が中心であったことを考えると、この位置は大和朝廷にとって北の蝦夷に対する絶対的な守り場所であったと考えられます。要石は鹿島は神宮本殿の東側、香取は神宮本殿の西側にあります。ここに最強の武道の神を配置して磐石の大和体制を堅持する意味合いが込められているように感じます。この要石で大和朝廷の安泰が保たれると思われたのではないかと考えます。全国の巨岩信仰をたどってみると何か分かってくるかも知れません。

て、その後の関東大震災が1923年9月1日に起こりますが、この時の震度は震源から離れていても、1000年前の利根川と荒川の流路に沿って分布してたといわれています。従って北極の氷が溶けて1m水位が上昇して水没すると見られているこれらの流域は地震に対しても注意が必要なようです。

■ 東国三社のトライアングル

さて、ここで香取の海を挟んで両側にある鹿島(香島)神宮と香取神宮の位置関係は大変興味深いものがあります。当時の交通が水路を基準として考えると、それぞれの一の鳥居が水路側にあるのもうなずけますが、鹿島神宮にはもう一つ鹿島灘の海辺(明石の浜)に東一の鳥居が建っています。この鳥居が何時ごろ建てられたものかはっきりしませんが、レイライン(太陽の道)を研究する人々にとっては大変重要な位置関係にあるようである。夏至の太陽が東一の鳥居より昇り、冬至の太陽が沈む方向には富士山と伊勢神宮があるのです。またこのライン下には皇居(江戸城)と明治神宮があります。また、夏至の太陽は筑波山へ沈みます。またこのラインの下に常陸国府(石岡)があります。春分と秋分の日の太陽は真東から昇り諏訪神社の方向に沈みます。これは偶然でしょうか?とても興味深いですね。

一方、香取神宮は鹿島神宮のほぼ南西です(45度)この二神社に、東国三社といわれるもう一つの息栖神社を結んでみると直角三角形が出現するのです。元々香取の海は大変大きな内海で、息栖神社はその船着場(おきすの津)の守り神(岐神、くなどのかみ)として信仰を集めてきました。この三角形に非常に大きな霊的な力を感じると考えられています。この三角形を鹿島-香取神宮を弓の弧とし、弦を息栖神社まで引くとその先には石岡があります。でもこれは弓引くのではなく、ここに要石を配したことに現れているように国府を守る盤石な守りの表れではないでしょうか。

一方、上総国一ノ宮である「玉前神社」との関係ははっきりしていませんが、出雲大社から真東にラインを引くと東の端がこの玉前神社となります。この春分、秋分の太陽のライン下には大山、元伊勢、富士山、寒川神社などが並んでいるのです。

香取の名前の語源は楫取(かじとり)であり、船人を統率する人の地と言われています。

 

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