子は清水                         

 昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市大字村上に「親は諸白、子は清水」といわれる清水がある。ころは、奈良朝、聖武天皇の御代に 「与一」という十一歳になる孝行息子が住んでいた。

 ところが、働き者の母親は、働きすぎがもとで病気になってしまった。「与一」は日夜をとわず交替で母の病気をなんとかなおそうと必死の看病にあたったが、その甲斐もなく、ついに帰らぬ人になってしまった。こんどは中風で寝たきりの父親がおり、この不幸の連続にもくじけず、よく父親に仕えていた。

孝行息子の「与一」は朝早くからやまへ薪を取りにいき、それを府中(今の石岡市)の町で売って金に替え、帰りには米やさかなを買って父親につくしていた。ある時、この清水のほとりを通ると不思議に酒の匂いがするので、さげていた徳利に清水を一ぱいすくいこんで持って帰り、父親に飲ませるとこらはうまい酒だといって非常に喜んだ。与一は父親があまりにもおいしそうに飲みほしているのを見て、つい自分も飲んでしまった。すると、不思議なことに、酒らしい味はいっこうになく普通の水であって、ほかの者が飲んでも、少しも酒らしい味はなかった。

そのことから、父親が飲むと酒の味がして、子どもが飲むと水の味がしたので、この清水を「親は諸白、子は清水」とよぶようになって、噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。美濃の孝子の奇跡で、年号を改められたという「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである。

これには、また、次のような一説も伝わっている。昔、村上に、酒好きの馬方がいたが、なまけ者のため貧乏であった。それでいて、いつでも、酒に酔って帰るので、そんなにお金があるはずはないと考えた息子が不審に思い親父のあとをつけて行った。すると、この清水をすくって飲み、たいそういい気持ちに酔って、そこを立ち去った。あと親父の姿が見えなくなるまで見送ってから、息子がその清水をすくって飲んでみると、それは、やはりただの清水であった。それで「親は諸白、子は清水」というようになったというのである。

         石岡の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫 (1979年)

村上地区にある案内板:

昔、この村上の地は、「村上千軒」といわれるほどの大きな村であった。
 この村に貧しい親子が住んでいた。親孝行な息子は、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行って、その日その日の暮らしをたてていた。年老いた父親は病気がちで、毎日息子が買ってきてくれる酒を、なによりの楽しみにしながら暮らしていた。
 そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。売れない薪を背負って、途方にくれながら家路をたどっていると、どこからか香しい匂いが漂ってくる。その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はその諸白(上質の酒)のうまさに驚いた。
 翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。
 この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。

 なにし負う 鄙の府の 子は清水
      汲みてや人の 夏や忘れん
 旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
      子は清水とて 先ず掬うらん

竜神山の麓の村上は昔多くの人が住んでいた。しかし地盤が硬く、井戸が掘れなかったために竜神山からの湧き水やこのような池の水も大切なものであったと考えられる。今は竹林となっており、水のあったと思われる場所が少しくぼ地となっているのみで、水はない。場所は柿岡道の通りのすぐ左側に看板が立てられている。何度もこの横を車で通っていたが気が付かずに通りすぎてしまっていた。場所は村上東のバス停のすぐ近くである。

このような話(養老の滝)は全国にあるようである。それぞれ少しずつ内容がことなるが、筋は同じものが多い。参考までに習志野(千葉県)の「子は清水、親は酒」伝説の泉、佐倉(千葉県)の「親はうま酒、子は清水」伝説や、常盤平(千葉県)の「子和清水」伝説の泉には「子和清水之像」も建てられ公園となっています。子は清水・・・コワシミズ(古和清水、強清水など)のことばの基になったものとも考えられます。 

         

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