残念坂                         

 府中城は現在の石岡小学校の入口に土塁が残されており、その名残を感じることができますが、この辺りは三の丸であり、二の丸、本丸と二重の堀があるとても大きな規模のものと推察されます。本丸の辺りは今は面影もありません。本丸のところは山(この辺りでは木々の生茂った林は山という)となっており、城山中と呼ばれておりました。

現在の石岡小学校の西側に宮部地区に下りる坂(他の資料では、若松町から若宮八幡宮まえを通り、染谷池袋に通じる道とのこと)があり、残念坂と呼ばれているそうです。それは、この府中城が落城したときのお話です。正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築造されたといわれる府中城は、天正十八年(1590)十二月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城するまで、何度も戦いにも耐えてきた不落の城でした。大掾氏最後の城主となった清幹(浄幹)はわずか5歳で城主となったが、回りを敵に囲まれ、敵味方も何度も変わる誰も信用できない状況で戦闘に明け暮れていたのです。

 豊臣秀吉に常陸の領土を認められた佐竹軍は、水戸を制圧し、北から府中城を攻撃し城の清幹は完全に包囲されてしまったのである。抵抗したがついに力尽き城に自ら火を放って自刃したといわれている。

 しかし、清幹が城で自害したとの説とは別に、城を逃げ延びて市内にある平福寺(大掾氏の菩提寺、代々の墓がある)までたどりついたが、万策つきここで自害したとの説がある。

 ところで、宮部の残念坂には城を落ちのびた清幹がこの坂まで来てうしろを振り返り、燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承によるものといわれており、清幹の無念さを今でも感じるようである。

 しかし、この残念坂にも、別な説明が残っている。それは、落城の際に、敵のすきをぬって、一人の武将が馬にまたがり疾風のごとくごとく脱出し、染谷池袋へ通ずる宮部地内の坂道へ落ち延びてきたが、運悪く馬の脚が泥中に入り込み、一歩も進まず、ついに追手の矢の集中射撃をうけ、「ああ、残念!」と一言、ついに落命したことからこの坂を「残念坂」と言うようになったとの話である。

どちらが、長くその話が伝わるかといえば、前者ではあるが、本当は後者の話が本当かもしれません。        

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