三村落城秘話                         

 今を去ること約四百年前、織田信長に擁されて室町幕府15代将軍となっていた足利義昭も、武田信玄と手を結び信長追放に動いた。しかし信玄が死去し逆に義昭は、信長より京を追放されてしまい、室町幕府が実質滅んだのであった。その歴史の激変の年に、常陸府中も群雄割拠により長く続いてきた大掾(だいじょう)平氏も府中城の廻りを敵に囲まれて窮地に陥っていた。
丁度室町幕府の滅んだ、天正元年(1573)二月、府中の城主、大掾(平)清幹(常春の兄)は、小川の城主(園部)を攻めようとしていた。三村の城主、常春も兄に加勢のため三村城の本丸に集まっていた。
その時、城の北方の入江で、すさまじい物音がするので、何事かと城兵が駆けつけてみると、大鷲(わし)と大鰻(うなぎ)がものすごい争いをしていた。
大鷲は水中の大鰻をさらっていこうと空より舞い降りてするどい爪で攻撃し、一方大鰻は、そうはさせじと必死になって大鷲の首に体を巻きつけて締め上げていた。
大鷲は、それをふりほどこうとおおきな翼をばたつかせ、水しぶきが大きく飛び散り、血が大きな渦巻きとなって辺りを渦巻いていた。やがて、鷲も鰻も疲れ果ててついに動かなくなった。それを見ていた城兵たちは、鷲と鰻を城にもって帰った。鰻は体長五尺近くもあり、胴回りも一尺余りもあったという。また、その鰻は耳も歯も持っていた。
三村城で兵士たちは、出陣前にふしぎなことと思って、なにか不吉な予感もしていたが、小川城(園部)を攻めるために船で出陣したのである。
しかし、この不吉な予感は的中してしまうこととなった。小川勢に常陸国統一を狙う佐竹氏が見方にはいったため、大掾、三村勢は奮戦したが大敗してしまった。
さらに悪いことに、城が手薄なのを見て取った小田天庵(つくば市小田)が千人の兵を率いて三村へ攻め入った。
三村軍は万策つき、常春公は四人の家来をつれて城から落ちのびたが、城のふもとの田に馬の足をとられ落馬してしまった。
ここぞとばかり小田勢は一気に常春公の首をねらって攻めてきた。この時である、常春寺の上空にものすごい稲妻が走り、耳を覆いたくなるような雷鳴がとどろいた。
追手は、体がすくみ、目もくらんでしまった。常春公はこの間に、「今日を限りに」と叫び、自害したのである。若干25歳の若さであった。
その後、常春公は高久保に埋葬され、五輪塔が建てられた。そこには、椿の木が茂り、いまではひっそりとしている。
また、鷲塚、鰻塚の地名が残った。(大鷲と大鰻の戦いで疲れ果てた両方を飯田七郎左衛門という城の兵士が撃ち殺したと伝わっており、七郎左衛門はこの両匹を埋めた場所に鷲塚、鰻塚との名前がついたとのことである)注1)参照

 
三村城主常春公の墓(五輪塔)は、あまりにもひっそりと立っていた。案内板もなく、近くの家の方に聞いてやっと分かった。常春寺より東側へ田んぼの中の道を真っ直ぐ進み、突き当たりを少し左に行ってすぐに右に登ると常磐線の線路の上を渡る。そのまま線路を越えて進むと左右に民家が1軒づつある。右側の民家の先を右に下る道があり、この苔むした細い道を下ったところにひっそりと佇んでいた(下りる道は車は通れないと思ったほうが良い)今は椿の木が大きくなっていた。

ここは四百年の間、そのままの姿で、続いているのではないだろうか? 流れる時間がとてもゆっくりとしているように思われた。

注1):三村城秘話に関し、もう少し追加の資料を探してみましたが、あまり多くは語られていません。昭和36年発行の「図説 石岡市史」(石岡市史編纂委員会編)の記載によれば、この城は「南城実録・三村記」の中で、室町左京介を大手門通りに住ましめ、江子田に伊賀入道を、新治砦に若狭元春を、館塚には常春の弟辰巳頭(たつみのかみ)三郎常慶を配し、東の方御前山には玉尾姫(片野城主太田山楽の妹)、西の方古館には竹原左大臣兼信の妹の二妻妾を住まわせ、東に滝界介三郎景正、西には要害太郎時直を配して守備させたという。また、三村城の危急を聞きつけ、府中城より武将岡野、山口をはじめとする軍勢300余、が府中から現高浜駅の裏手の高台(舟塚山古墳などがある)近くの中津川台に到着し三村城を望めばすでに城は落城していた。義を重んじる岡野・山口ら軍兵206人はその場で切腹して果てた。天正元年(1573)2月19日であった。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると南城高家録に記されている。しかし現在は堂宇はなく元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残る。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろう。となっています。本日、北根本にある六地蔵尊を探してみたが見つからなかった。図説石岡市史には写真が載っているので時間がある時にまた探してみたい。(2007.12.1)

一方、鷲塚(わしづか)、鰻塚(うなぎづか)の地名について、同じ「図説石岡市史」に次のような説明が載っていたので参考に記載します。「うなぎ塚は石岡市三村字羽成子(はなし)の台にあったが、昭和34年高浜、三村耕地整理の堤防増築(高浜地区は底なし沼のような悪い地盤で、かなりの難工事となった)の土取りの際、封土は完全に削平されてしまった。約60mの前方後円墳であることが判明し、石棺内から二体の人骨と刀剣、勾玉、管玉などが検出され、封土から椀形土器が出土した。この地方にみられる合葬の風を示すものである。石棺内部は朱ぬりであった。なお近くにもう一基前方後円墳のわし塚があった。」となっています。すなわち古墳だったのです。

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