■常陸国のお宮 大和朝廷の竜神山はその名の通り、石岡の市内の方からみると右が頭で左が胴体である竜の形に見える。頭の側の杉の木が竜のヒゲだ。その竜神山も採石が進み首が切り離されようとしている。信仰を深めてきた山であり、昔のままの姿を残して欲しいものである。 鹿島神宮(一ノ宮):茨城県鹿嶋市宮中2306-1 創建は神武天皇1年、紀元前660年と伝えられているが、本当のところはよくわかっていない。もっとも、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、鹿島神宮の創建が紀元前7世紀であるとは考え難い。平安時代に、「神宮」の称号で呼ばれていたのは、延喜式によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだった。 鹿島神宮・香取神宮共に蝦夷に対する大和朝廷の前線基地であった。 武甕槌神を祭神とする。武甕槌神が、香取神宮に祀られている経津主神とともに武芸の神とされていることから、武術の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多い。 また、地震の守り神としても有名である。境内の要石(かなめいし)は、地震を起こす大鯰の頭を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている 静神社(二ノ宮):この竜神山には、竜神夫婦以外に「茨城童子」という鬼が住んでいた。童子は、丹波の大江山の酒呑童子の兄弟分と言われ、さらった人間を入れる大きな巾着袋をさげ、石の根締めで紐をくくり、夜ごと里人をさらっては食べたという。このため、人々は童子を恐れ、子供などは「茨城童子」と聞いただけで泣きやむほどであった。 吉田神社(三ノ宮):た、そのとき、童子が腰に下げていた巾着袋の根締め石も、邪魔になって投げ出してしまった。それがはるか茨城の万福寺の西に落ち、畑の中にめり込んでしまった。これが茨城に残る巾着石である。 他にも、西国から征伐しにやって来る者(強い者)があると言う噂を聞き、恐ろしくなったので三角山を越えて逃げ、巾着袋も放り出していったとの話もある。この名から三角山は「鬼越山」と呼ばれた。
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