▼府中城跡▼ 石岡市総社1-2

歴史の里石岡ロマン紀行


<日本三名古城の一つ>

 府中城は大掾氏の城として大掾詮国により1346年から数年かけて建設された。それまで貝地・田島地区にあった石岡城は外城(とじょう)として使われていた。それから戦国時代末期まで約2百年以上守られてきた当時としてはかなり大きな本格的な城であった。もともとこの地は今から1300年以上前に常陸国衙があり、常陸の中心となった土地であったが、天慶二年(939)11月に起こった平将門の乱によりそのほとんどが焼失していたため、建設された当時はどのようになっていたかはほとんど記録に残っていない。現在の石岡小学校の入口に残る土塁跡が府中城の規模を偲ぶ唯一のものといってよいが、周りを巡ってみるとあちこちに面影らしきものを発見することができる。1590年にまだ若き(18歳)の当主大掾清幹が佐竹氏に攻められ炎上する城を後にしながら宮部側に城から下りながら「嗚呼残念」と嘆いたその想いがまだ残っているような気がします。清幹は自刃してはて、敵方となった園部方から嫁いだ奥方は恨まれつつ堀に身を投げて自害したとの話も伝わっています。その後、現在の石岡は佐竹氏-徳川松平家と統治が続いていくが今でも石岡の地は大掾(だいじょう)氏の影響が残っているのには驚きでもあり、非常に興味深い。

この府中城には、高の浜城(別名田中城)、三村城、外城、中郷城(別名竹原城)、取手砦、根当砦、弓削砦(道鏡の子孫がまもった、現竹原)の7つの出城を所属していた。

建保2年(1214)に常陸大掾職にあった多気義幹の後を継いだ資幹(スケトモ)は館を府中(石岡)に執って政務をとった。一方水戸に馬場城(水戸城)を築き、府中は政務をとる館であった(石岡城)。その後大掾職を継いだ6代目の詮国がこの地に本格的な城として建設したものと言われている。従ってこの時期は水戸(馬場)城が本城であったが、本城と変らない規模になっていった。しかし、詮国の子満幹の時代に水戸城を江戸氏に奪われて後は、大掾氏の実質の本城となった。ここ府中城の規模は東西約330m、南北220mにおよび本丸・二の丸、三の丸、箱の内出丸、磯部出丸、宮部出丸を備えていた。南に鯉川(現恋瀬川)の清流があり、東面を除く三面は断崖絶壁で、西方はるかに筑波山を望む景勝要害の地に位置した。、幾重もの堀、土塁が本丸を中心にめぐらされ、磯部、宮部、出丸の間は満々と水をたたえ、市街の周囲にも自然を利用した空堀をめぐらせた県下唯一の都城形態をもつ名城であった。謫居童問によると陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並ぶ日本三名古城といわれ、国府そのものが城の形体をしている堅城であった(参考:茨城の城館ニ サンケイ新聞社編 ふるさと文庫)


石岡小学校正門脇の「常陸のみやこ 一千有余年之地」の碑と土塁  

府中城の土塁 (市指定史跡)

 府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築城されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
 落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこりを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。
 城の規模は東西約500メートル、南北約400メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。   昭和60年3月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会


 

東側の土塁は写真にあるように続いている。もと堀があった場所は今は道路や住宅などが建っている。撮影:2007.01.14

 

元の堀や池があったと思われる場所の空き地には二宮尊徳像が置かれていた。(スーパーの裏手の空き地)

常陸のみやこ 一千有餘年之地

 この石岡小学校敷地一帯は、今から約1300年前に常陸国の国衙が置かれた場所と推定されています。この国衙を中心として現在の石岡市域全体を領域とする常陸国府としての古代都市が建設され、常陸国の政治・経済・文化の中核的な役割を果たしました。
 しかし、この繁栄を極めた古代都市は、10世紀半ばに起こった平将門の乱によって破壊され、やがて、この地には南北朝時代から戦国時代にかけて、大掾氏によって府中城が築城されました。大掾氏滅亡後、幾人かの領主が交替すましたが、何れもこの府中城の地に支配の拠点を構えました。そして、18世紀の初頭、水戸徳川家の御連枝府中松平氏の領地となってこの地に府中陣屋が建設され、明治維新に至る160年間、その支配が続きました。
 近代になると、この一帯には教育施設が相次いで建設されました。まず明治6年に石岡小学校が開校、明治43年に新治郡立農学校(現在の石岡一校、のち大字石岡に移転)、大正元年に石岡実科女学校(現在の石岡二高、のち府中五丁目に移転)、昭和22年には石岡中学校(のち東石岡四丁目に移転)が開校しました。
 このように、この地は石岡の枢要として古代から近代に至る歴史を重層的に担ってきたのです。ちなみに、この石碑の位置は、中世府中城の土塁であり、昭和戦前期に、石岡小学校の奉安殿が建てられていた場所です。

   平成8年8月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会

 

市民会館の裏が石岡小学校入口であり、「常陸のみやこ 一千有餘年之地」の碑と土塁跡が見られる。

市民族資料館のすぐ近くに見られる土塁跡(府中城三の丸跡)

   

北側の土塁の面影(今は土塁と竹林となっており、堀があったと思われるところはほとんど、住宅と道路などになっていた)撮影:2007.01.14

 

大掾詮国、満幹、頼幹、清幹、高幹、常幹、慶幹、貞国、清幹の9代

本丸側との境付近の土塁跡(小学校の西側)

府中城七つの抜け穴

古くからの言い伝えによると、この府中城には七つの抜け穴があると言われている。これを証明するように、昭和19年11月に石岡小学校西運動場Y字形の三叉点に1.2m2の穴が空いた。これは軍隊のトラックによる振動と重量によるものであった。この穴は、言い伝えでは青木町から香丸町より泉町へ通じているとのことであった。また、青木町の山口歯科医院前で、1.8m2の坑道が発見され、香丸町の石原自転車店裏も陥没した。更に泉町小松氏宅裏も大雨で人がたって歩ける程の穴が空いたのである。そして金刀比羅神社鳥居西方36m先も陥没した。また昭和4年6号国道の改修工事で、守木町魚亀前が1.2m2陥没。これは外城方面への抜け穴の一部と見られている。貝地の猪瀬氏宅でも庭が陥没したが、側面は赤土を饅で撫でたようで、元真地の井坂氏の畑を発掘したときにも見られたものと同じであった。記録によれば「府中より東南方向の出口は幸町羽黒祠下」とあり、その場所に近い場所であった。

石岡の歴史と文化 石岡市歴史ボランティアの会編 (平成8年3月発行)