▼宮部不動院▼ 石岡市若宮2-4-24

歴史の里石岡ロマン紀行


 宮部地区は旧府中城の麓にある。戦国時代1590年に府中城が佐竹氏に攻められその時戦火を受け、そのほとんどが消失した。佐竹軍は府中城を攻撃、これに対して大掾清幹(きよもと)は抵抗したが力尽き自刃した。馬場資幹以来、府中に君臨した大掾氏が滅亡した。ところで、宮部の残念坂には城を落ちのびた清幹がこの坂まで来てうしろを振り返り、燃えるわが城をながめて「嗚呼残念」と慨嘆したという伝承があり「残念坂」の名が残っている。

  

不動院の文化財 (県指定文化財)

 寺号:明王山虚空蔵寺不動院(真言宗)

 不動院は天正年間(1573-1592)に佐竹氏が府中城を攻めた際、戦火を受けて古記録を焼失した。開基などは不明であるが、寺伝によれば、明応2年(1493)醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと言われる。明治堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
 近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に指定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
 常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。

宝塔鈴は宝珠杵などとともに密教用具の一つとして用いられ、平安時代ごろから中国より輸入され灌頂、加持祈祷、護摩などの修法を行う際に用いられてきた密教独自の法具である。(室町時代