▼常陸国衙跡▼ 

歴史の里石岡ロマン紀行


常陸国衙(こくが)跡 石岡市総社一丁目2番

常陸国府の成立は、7世紀後半から8世紀初頭である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していた。常陸国は大国で、国府も大規模なものであった。多くの官人や兵役・雑徭のためにやってくる農民たちでにぎやわい、国分寺・国分尼寺・国衙工房などの施設が存在した。国府の中心である国衙の所在地は、石岡小学校付近にあたる。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や、倉庫郡など、さまざまな建物があった。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に伴い、校庭の中央部付近の発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。大形のものは径1.5m、深さ2mの規模を持ち、これが国衙の建物跡と考えられている。

常陸国府は、東日本の軍事・経済の拠点として、また、宗教文化の中心としての、重要な役割を担っていた。

昭和60年3月 石岡市教育委員会

石岡小学校入口民族資料館近くに立てられた記念碑

 「常陸国衙跡」   撮影:2007.01.1

校庭の一部で行われている発掘調査  撮影日:2006.11.25

まだ校舎の建屋の下の調査は一部残されたままであるが、全国の国衙でもこれほど発掘がされて全容が解明されたところは稀で非常に貴重である。



 小学校の校庭(旧常陸国衙跡) 撮影日:2007.01.06

今も校庭の一部は国の予算で発掘が行われている。何度にも分けて発掘が行われており、学校の運動会などにも支障がある。出土された資料や、柱の跡などは1年後に説明会が実施された後、資料は民族資料館に置かれて分析されるが、校庭は埋め戻される。

  校庭の片隅には今は懐かしい「二宮尊徳像」が置かれている。

 

 国衙の碑のすぐ近くに立つ「万葉歌碑」である。

「庭に立つ ( あさ ) ( ) 刈り干し布 ( さら ) 東女 ( あづまをみな ) を忘れたまふな」(藤原 宇合 ( うまかひ ) 大夫 ( まへつきみ ) 、任 ( うつ ) りて京に上る時に 常陸娘子 ( ひたちのをとめ ) の贈る歌)

(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)

都から来ていた国司、藤原宇合(うまかい)は奈良時代前半政権をとった藤原不比等の三男で藤原四兄弟の一人です。高橋虫麻呂を部下として常陸風土記を編纂したのではないかともいわれます。この宇合がこの地方の娘と恋に落ちたのでしょう。都に帰る宇合を見送る時に読んだものです。持統天皇八年(694)の生まれで、霊亀ニ年(716)に遣唐副使として2年間中国唐に渡り儒教的教養を身につけ帰国し、その1年後の養老ニ年(718)7月に常陸国守となった(安房・上総・下総も所管とした)。養老七年(723)に任務を終えて京に帰ったとされる。(市制30周年記念「石岡の歴史」より)