県指定史跡「石岡の一里塚」 石岡市泉町2108・12805番地 一里塚は、主要街道の一里(約4km)ごとに設けられた路程標である。慶長9年(1604年)江戸幕府が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道の両側に築いた塚を指したのが始まりといわれる。この塚に植えられた榎の木陰が、行路者の休憩の場となったことも少なくなかった。時代の経過にともない荒廃し、天明年間には、その大半が失われたといわれる。明治以降も道路の拡張などによって失われたものも多く、今日では両側に残っているものは少なく、特に榎がのこっているものは全国的にもめずらしい。石岡の一里塚は、旧水戸街道の府中(石岡)から長岡に通ずる街道の両側に残るもので、特に東側の塚の上に植えられた榎が今も樹勢よく天にのびている。(昭和33年設置の看板より)
残念ながら平成14年の台風で榎は折れてしまい、現在は根元の幹のみを残す。
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在りし日の一里塚(エノキであるが、殿様に何を植えるかを聞いたところ「余の木を植えよ」と言われたのを聞き間違えたとの話も伝わっている) |
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通りの西側の一里塚。こちらも榎は根元でなくなっている。 |
ここのひとつ前の一里塚が常磐道の千代田石岡インター出口に残っている。(上記写真は石岡の一里塚)
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「水戸街道(江戸街道)道中絵図」
江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸
昔は江戸方面へ行くときは「江戸街道」水戸方面へ行くときは「水戸街道」と呼ばれていた。宮城県岩沼市まで続く陸前浜街道の一部である。
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行里川(なめりがわ)の街道沿いに残る立派な長屋門。 行里川へは「一里塚」より通り(52号線)を7号線を越えてから旧道は左に回りこむように進む。園部川沿いに大きく廻って6号国道へ出るまでの道である。
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一里塚より行里川(なめりがわ)側を眺めた。昔は両側に立派な杉並木があった。杉並木は昭和30年まであり、樹齢250年、全長2km続いていた。日光杉並木と並んで、全国的にも珍しい杉並木であった。当時石岡(府中)が松平家の領地であり特別に幕府より杉の植樹が許可されたものであった。しかし、町の開発に対しては大きな杉並木は昼でも暗く、一人歩きも怖いとの住民の意見もあり、新たな植樹が行なわれた。今では地名として「杉並」が残っている。昔の杉並木は両側が高く土盛りされており、今でも一里塚の榎の根元が盛り上げられており、その面影を残している。また杉並四丁目付近には江戸時代に水戸の殿様方の休憩場といわれた200坪ほどの「茶屋場」跡が残されていましたが、今は「茶屋場住宅」となって名前が残るのみです。
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<水戸街道の「府中」宿場について> 旧水戸街道は手前の「稲吉の宿場」は現在の6号国道の左側(西側)を国道と平行続いており、江戸から2泊目が土浦、中貫、稲吉、府中あたりにとる位置にあたります。現在の常磐高速道路の「千代田・石岡インター」出口の6号国道沿いに「千代田の一里塚」が残されています。この一里塚より国道6号を少し進み、恋瀬川手前より旧道は左に入りますが、すぐに恋瀬川で国道に戻り、橋を渡ってからすぐ国道6号より分かれて左斜めに坂を上ると、そこが旧府中の宿場町です。現在は中町商店街として昭和初期に建てられた「看板建築」のロマンを感じさせる建物が続きます。通り沿いの電柱地中化を進め、映画のロケ地にもなるイメージUPをはかっています。
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