▼府中六井石井の泉▼ 石岡市若宮2-227

歴史の里石岡ロマン紀行


旧府中の都には6箇所あったとされる清らかな水源(泉)は、石岡のおいしい酒造りにも活かされていた。ここ石井の泉には現在は地蔵が置かれている。場所は住宅の裏の崖っぷちにある。道路沿いの案内板に示された方向に歩いていったがなかなか見つからない。まっすぐ進んで住宅が切れた先の裏側にまわらないと見つからない。住宅の横から階段を降りて廻りこんだところにそれはあった。反対側の宮部側高台よりも良く見える位置にある。場所は磯部台の下、古くは門島(かどしま)といわれた場所で、昔は榎の大木が井を覆うようにそびえていたとのこと。

  現在、石井の泉の上には地蔵菩薩の石仏像が祀られており、目の守り神としても人々から親しまれています。清らかな清水が流れていた泉も今はほとんど流れはない。

 

 

 

 

 市内には、野々井・室ケ井・小目井・石井・杉ノ井・鈴負井などの泉があった。これらは「府中六井」と呼ばれ現市街地をとりまくように存在していた。その中でも石井の泉は当時の面影を良く残している。

・涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに

・びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ

・故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む

・見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末

・宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水

今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな

その他の六井について

小目井(字田島前):昭和初期までよくその形態をとどめていて、25坪余の境内は立木でおおわれ、中央に薬師堂、向かって右に石燈篭、その右手に井戸があった。「その水で眼を洗えばたちどころに治る」と近隣や遠方からも人が訪れていたが、昭和30年代には境内の立木は伐採されあたり一面には笹が乱茂して荒れ果ててしまった。

室ヶ井(金丸東南水田の中):小目井の荒廃から数年後、室ヶ井は新しい6号国道の路線に重なり国道のコンクリートの下に姿を消してしまった(昭和37年3月開通)。この室ヶ井は田んぼの中から湧き出した泉であった。毎年井戸供養も実施して保存を計ってきたが、残念なこととなってしまった。昔は1日に7へん色がかわると言われたほどの清水であったとのこと。飲料水以外に産井としても使われたという。

野々井(北の谷):古書には北ノ谷のホチ水と書かれているところである。笠間街道沿いにあり、現在は個人(小松崎氏)の屋敷内の床下にあった。床下に湧く清水は桶をかぶせ山王川に流していたという。現在水が流れているかは不明。昔の伝説が残っている。「井戸の周辺に棲んでいた大鰻を殺し、水で洗ったところ、その血が付近の田んぼと山王川を紅に染め、三日三晩霞ヶ浦へ流れた」という。昭和8年にやっとその場所が特定されたもの。野々井はここの他に茨城(ばらき)の東方にも同じように呼ばれる湧き水の箇所があった。

鈴負井(宮部):鈴尾井、鈴保井、鈴緒井とも書かれている。宮部の舘下といわれる一帯の田地にある。噴井でかなりの清水が湧出しており、用水路に誘導され原型はとどめない。しかし鈴負井といわれる井戸、清水は他にも近くに2箇所伝えられている場所が存在し、3箇所の総称であったようである。

杉ノ井(泉町東北田圃の間):境内にケヤキ2本、杉1本があり、弘法大師が祀られている。通りに近いところに井戸コガがあり、それらしい雰囲気はのこしているが、井戸は枯れてしまっている。昔水戸の殿様が江戸往復の途中、ここで水を汲んで茶を喫したという茶屋場跡が残っている。

今は井戸と呼べるものは皆無に等しく、その昔の存在意義も忘れ去られようとしています。しかし、ここ石岡は硬い岩盤の高台にあり、井戸もなかなか掘れずに苦労しており、これらの湧き水が非常に貴重なものだったことが想像されます。かって府中六井の付近数坪は耕作が禁止され、周囲の畑での肥料の使用も禁止され、その清浄さを保ってきたのです。昭和58年に笹目蔵之助氏の「府中六井」という書物が発行されており、この中で上に挙げた6ヶ所以外に以下の箇所を追加している。田端井(貝地の幕内敦文家の井戸)、総社のおみたらし(総社入口のお清めの水)、遺徳泉(宮下の鈴木清家、久保の山より湧き出した清水を筧に引いたもの)、小目代福性院の古井戸、村上の子ハ清水、府中宿の古井戸、貝地駒田の古井戸などである。