▼木造十一面観音立像▼ 石岡市若宮一丁目8番23号

歴史の里石岡ロマン紀行


 国衙跡より若宮八幡宮方面へ行くと青屋神社があり、その先に八幡通りへ出る。この通りを横切ってまっすぐに古い家並みを過ぎて次の通りを横切って細い道を進んだところに静かに建っている。観音立像は像高141cm。制作年代は室町時代と思わる。近年、この仏像の修理が行われましたが、その際、慶長16年と明治17年にも修理が行われていることが判明した。慶長16年の修理は六郷政乗の孫である六郷政慶の命により行われていたことは注目に値する。出羽国の出身である六郷氏は佐竹氏と入れ替わりで府中に入ったが、その後すぐに出羽国に戻っており、石岡市内ではあまり記録が残っていない。六郷氏の石岡市内での足跡をたどる貴重な資料であるとみられている。

 また、この十一面観音は,旧若松町内に存在した長峰寺にあったものと伝えられています。現在管理は東耀寺にて行われているようです。

 木造十一面観音立像 (県指定有形文化財(彫刻))

 

 

(2007.8.26 撮影)

 木造十一面観音立像 (県指定有形文化財(彫刻))

 一木造、漆箔、一躯、像高141センチメートル。像容は高い宝髻、面長な面相、心持ち腰を左にひねり、姿に変化をもたせている。折り返して二段に設けた裳が複雑な衣文をつくり、それが下方に長く垂れて刻む彫り口など、宋風の影響が強くみられ、制作年代は室町時代と思われる。天冠台上の化仏はすべて失われている。技法・表現とも地方化がみられ、在地仏師の造立であろう。  この十一面観音は、かってこのあたりに置かれた長法(峯)寺にあったものと伝えられる。(当初看板は寄木造となっていたが、一木造に訂正された)

      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会

この馬頭観音の碑がある場所は昔「長法寺(長峰寺)」があった場所とされています。現在の若松町一帯は寺の名前から「長法寺」と呼ばれていました。宝永年間(1704-1711)に若松町と改名されています。この地に有名な刀工長峰寺正俊が住んでいたが、相州鎌倉に移ったと言われています。その名刀が東京国立博物館に所蔵されています。「薙刀の押形」で刀長一尺四寸あり、常州住、長法寺とあるため、長法寺の住職であった可能性もあるとのこと。

長峰寺のこと

 長峰寺(長法寺、長宝寺とも書く)は寺の名前として始まったが、やがて寺のあった地域全体を指し示す町の名前として使われるようになった。現在の若松町である。この寺は相当大きな寺であり、子供がその縁の下を立って歩けるくらいであったという。また府中城落城時(1590年)にすでにあったことが記録に残っているが、明治3年の出火で焼失してしまった。この火事は「長峰寺の火事」と呼ばれており、若松町・青木町・香丸町・仲の内町・金丸町・中町の500戸に延焼し、烈風のため、矢口本陣や新地八軒(鈴の宮神社横)なども焼失してしまったとのことである。

長峰寺のオン出し

 昔、江戸時代(藩政時代)に、藩の陣屋(現在の石岡小学校の場所)の南隅と香丸、青木町との境に、罪人を収容する場所があった。罪人は赤柿色の衣服を着ていたので「赤ちゃん」と呼ばれていたが、近くの農作業などや雑用などの手伝いなどもさせられていた。この罪人を釈放する時に、南の幸町口は江戸表側であり、北の泉町口は水戸様に申し訳ないとの配慮から、柿岡、宇都宮(谷向方面)側の追分「大棒杭(おおぼっくい)」から釈放されたのである。「オン出される」との意味から、長峰寺のオン出しと言われるようになったが、今ではこんな言葉は聞いたことなどない。

(参考資料:石岡市郷土資料 第24号 「府中石岡 長峰寺」 昭和43年)

 

 馬頭観音のこと

 昔はこの地が町の入口部にあたり、宇都宮への街道筋になっており、境内も広く、相当に盛んであったとのこと。石岡は国府時代から馬の集散地であった。全国の馬の産地より多くの馬が集められたとのこと。市内には馬に関係した地名も数多く残っており、馬を持った者はこの長峰寺観音へお参りに来て、笹の葉を買って帰るのが慣わしであった。しかし荷馬車が運搬の主体であったのは昭和30年頃までで、その後はトラックにかわり、今では馬など見かけることもなくなった。

買出し場のこと

 長峰寺には「買出し場」というところがあったという。米の産地である山根地区(柿岡地区)の良米を馬の背に2俵積んで(このため2俵で1駄という)石岡の町へ運んだ。その時、町の入口であるこの地にできた「買出し場」で、米の品評や商談が行われたのである。このため、この周りには、馬方茶屋などの休憩所などが多くでき賑わい、秋には連日数百頭の馬の列ができたという。買出し場はここ以外にも市内では国分町にもあり、陸前浜街道に沿った米の産地から米がたくさん集まった。米穀商が軒を並べていたという。(明治20年頃から明治の終わり頃まで続いたとのこと)