長峰寺のこと
長峰寺(長法寺、長宝寺とも書く)は寺の名前として始まったが、やがて寺のあった地域全体を指し示す町の名前として使われるようになった。現在の若松町である。この寺は相当大きな寺であり、子供がその縁の下を立って歩けるくらいであったという。また府中城落城時(1590年)にすでにあったことが記録に残っているが、明治3年の出火で焼失してしまった。この火事は「長峰寺の火事」と呼ばれており、若松町・青木町・香丸町・仲の内町・金丸町・中町の500戸に延焼し、烈風のため、矢口本陣や新地八軒(鈴の宮神社横)なども焼失してしまったとのことである。
長峰寺のオン出し
昔、江戸時代(藩政時代)に、藩の陣屋(現在の石岡小学校の場所)の南隅と香丸、青木町との境に、罪人を収容する場所があった。罪人は赤柿色の衣服を着ていたので「赤ちゃん」と呼ばれていたが、近くの農作業などや雑用などの手伝いなどもさせられていた。この罪人を釈放する時に、南の幸町口は江戸表側であり、北の泉町口は水戸様に申し訳ないとの配慮から、柿岡、宇都宮(谷向方面)側の追分「大棒杭(おおぼっくい)」から釈放されたのである。「オン出される」との意味から、長峰寺のオン出しと言われるようになったが、今ではこんな言葉は聞いたことなどない。
(参考資料:石岡市郷土資料 第24号 「府中石岡 長峰寺」 昭和43年)
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馬頭観音のこと
昔はこの地が町の入口部にあたり、宇都宮への街道筋になっており、境内も広く、相当に盛んであったとのこと。石岡は国府時代から馬の集散地であった。全国の馬の産地より多くの馬が集められたとのこと。市内には馬に関係した地名も数多く残っており、馬を持った者はこの長峰寺観音へお参りに来て、笹の葉を買って帰るのが慣わしであった。しかし荷馬車が運搬の主体であったのは昭和30年頃までで、その後はトラックにかわり、今では馬など見かけることもなくなった。
買出し場のこと
長峰寺には「買出し場」というところがあったという。米の産地である山根地区(柿岡地区)の良米を馬の背に2俵積んで(このため2俵で1駄という)石岡の町へ運んだ。その時、町の入口であるこの地にできた「買出し場」で、米の品評や商談が行われたのである。このため、この周りには、馬方茶屋などの休憩所などが多くでき賑わい、秋には連日数百頭の馬の列ができたという。買出し場はここ以外にも市内では国分町にもあり、陸前浜街道に沿った米の産地から米がたくさん集まった。米穀商が軒を並べていたという。(明治20年頃から明治の終わり頃まで続いたとのこと)
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