▼景清塚(カゲキヨツカ)▼ 石岡市貝地2丁目6

<歴史の里石岡ロマン紀行>


石岡貝地町公民館(平等寺の裏手)の横のこんもりとした塚が景清山、景清屋敷とよばれている。頂上に「愛宕神社」と「平景清公之霊地」の石碑がある。平景清は源平合戦で源氏の那須与一と共に平氏方の勇猛な武将として知られ、歌舞伎の演目にも登場する人物である。これほどの人物の霊地がこんなにもひっそりと目立たなく存在しているのも不思議である。また石岡の歴史の資料にもあまり登場しない。平景清は源平合戦後源頼朝に捕らえられ、その武勇を惜しんだ頼朝に命を助けられ、1196年に小田城(つくば市)の築城者である八田知家(ともいえ)に預けられたが、絶食して果てたと伝えられているが、異説も多い金刀比羅神社の宮司が、愛宕神社をもって、猛勇な景清の霊を慰めようと建立したいう。

寿永年間(1183年)平維盛に従って屋島合戦に源氏の美尾谷十郎国俊と錣(しころ)引の力競べをして、その剛勇をうたわれた。また、扇の的を射た源氏の那須与一と共に屋島合戦の双璧を飾ったが、平家滅亡の後、源頼朝に従った。後に常陸国守護八田知家に預けられたが、食を断ち、建久七年(1196年)三月七日に命を終えた。(石岡の歴史と文化より)



 平景清は平氏で呼ばれているが、藤原氏が本当である。平氏は元々平国香(くにか)がその祖とされ、国香の父高望王が平氏を賜り、上総介として上総(千葉県)にやってきたことに始まる。国香は上総(千葉)から常陸(茨城)へ勢力を拡大したが、将門の乱で殺されてしまう。この後、この平将門を討ったのが、国香の子「平貞盛」と後に百足退治で有名となる俵藤太こと藤原秀郷(ひでさと)である。

景清はこの藤原秀郷流伊藤氏の流れをくむ上総介「藤原忠清」の7男として生まれた。府中六井の一つ「室ヶ井」の水で産湯をつかったとされる。この「室ヶ井」は冨田町より兵崎へ通じる小道の東方、びんづる谷津の中にあったとされるが国道6号線の下に埋まってしまった(貝地交差点近く)。

 

 源平合戦で猛勇を馳せた景清は各地にその名を残している。

・清水寺(京都):源頼朝の命を狙って失敗し捕えられたとき、「源氏の世は見られぬ」と自らの目玉を刳り抜き奉納したとの伝説がある。また景清が自らの爪で石を彫って作ったと言われる景清爪形観音が残る。また、仏足石は景清の足型であるという伝承も伝わっている。

・秋芳洞(山口):壇ノ浦の戦いに敗れた景清が身を隠くしたとされる「景清洞」がる。

・生目神社(宮崎):景清が日向に下って、この地に僧侶として閉居していた。歿後、景清公の活けるが如き霊眼を祀ったとされる。一説には源氏の隆盛を目にする苦しみから逃れるために、自分の両眼をえぐって空に投げた。そのため御祭神として、景清の両眼が祭られているとされる。

・景清廟(宮崎):源氏に対する復讐心から自分の目をくり抜いて盲僧となった平景清の霊を祀っている。また、景清の娘人丸の墓や、景清が使用したという硯石がある。

・景清の墓(鹿児島県曽於市):壇ノ浦の戦いに敗れた後、平家再興を胸に秘め、源頼朝の命を狙っていたが、暗殺に失敗し、捕らわれの身となる。景清の武勇を惜しんだ頼朝は命を助け、九州に流し日向国、宮崎を経てこの地に移り住み、没したところと伝えられる。

・平景清息女の墓(熊本県岡原村):父・景清を追って岡原村までたどりつき、景清の死を知って自害した娘の墓という。

 

源平の頃征夷大将軍の言葉に見られるように常陸国以北(現東北地方、陸奥)は中央政権の支配下にはありませんでした。このため日本列島の東端がここ常陸国であり西端が日向国(宮崎)となります。このように都から見ればこの両端に景清公の伝説が残っていることになります。謎も多く、幾多の演目に登場した人物ですのでどこからが作り物かはよくわかりません。しかし、ほとんど知られていないここ石岡の景清公についても、もう少し目を向けても良いように思います。最後に預けられた「八田知家」は従兄弟である常陸大掾氏(多気義幹)を北条時政と共に曾我兄弟の混乱につけ込み換言をもって罠にはめて領地を奪い常陸の守護に補任した人物です。しかし、大掾氏は多気氏にかわり同族の吉田氏(馬場氏)が継いでいくことになります。