▼石岡大火の記録▼ 

歴史の里石岡ロマン紀行


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石岡地方の出来事

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939 天慶2年 平将門常陸国府を攻略。約300戸の民家が焼かれ、15000の絹布など、略奪の限りを尽くす。 寺院や国府の記録が消失
1580 天正8年   本浄寺(府中2丁目)焼失
1585 天正13年 国分寺戦火により焼失。仁王門の金剛力士の首だけが残る 千手院も同時に焼失か?
1590 天正18年 府中城落城。府中はことごとく焼失。中世府中の文化遺産は常陸大掾平氏と命運をともにした。この焼け野原に主に佐竹氏により新たな町が築かれた。落城から7年後の慶長2年に町立てが行われた。 照光寺、清涼寺、不動院、本浄寺、若宮八幡宮、青木稲荷神社焼失
1728 享保13年 府中平村大火。守木より出火、中町・金丸・守横・富田・幸町・香丸・仲之内・泉町延焼、547軒類焼 戸数は昭和4年の大火とほぼ同じだが、消失区域は数倍に及ぶ。府中の町はこれを境に復旧し、様相も一変した。
1739 元文4年 府中大火。150軒類焼  
1762 宝暦9年 府中宿大火  
1773 安永2年 照光寺、山門と鐘楼を残して焼失  
1784 天明4年 守横町より出火、富田、田端(貝地)残らず類焼 盛賢寺類焼(翌年再建)
1809 文化6年 守木町より出火、107軒類焼 火元の柏屋の名前から俗に柏屋火事という
1822 文政5年   国分寺薬師堂焼失
1845 弘化2年 府中平村千手院の空寺より出火。196軒ほか焼失  
1864 元治元年 天狗党事件の府中焼討ち(泉町、香丸町、守木町)で160件の家屋が焼失 暴徒は守木町の豆腐屋で箒の先を油鍋にいれ、竈の火をつけてから軒並み放火して歩いた
1870 明治3年 若松町から出火。青木町・香丸町・中町・仲ノ内町・金丸町へ延焼。500戸焼失 神社6ヶ所、寺2ヶ所焼失(初午の強風の日であった)
1878 明治11年 中町より出火、金丸・守木・守横・富田の320戸類焼 陰暦の二の午(2月14日)で、見る見る火の手は広がった。
1908 明治41年 国分寺より出火。強風にあおられ150戸焼失。 国分寺の仁王門・薬師堂類焼。金剛力士の頭部に手と足をノコギリで切り救出
1909 明治42年 中町より出火、102戸類焼  
1914 大正3年 中之町より出火。飛び火で香丸通り裏手より出火。28件焼失  
1927 昭和2年 若松町より出火。25戸焼失  
1929 昭和4年 大火。中町より出火、強風にあおられ金丸町・富田町・守木町・守横町・貝地町・木之地の606戸全焼。ガソリンタンク誘爆もあり、中町・守横町は全焼。約2000棟、被災者役3000人。 金力比羅神社焼失。常磐銀行・高喜呉服店・国分館・西之宮醤油店・常光院・華園寺・石岡劇場・村上裁縫女学校・家政女学校・明愛貯蓄銀行・松の湯・商華会館などが炎上
1945 昭和20年 空襲、一部建物焼失  
1961 昭和36年 火薬ダイナマイトの倉庫から放火で出火。倉庫内の火薬類消失 その後ダイナマイトを仕掛けた火災が続発し「石岡のダイナマイト事件」とよばれた。
1964 昭和39年 総社宮の拝殿屋根より出火。拝殿全焼、本殿半焼 石岡小学校で盆踊りが開かれており、子供の火遊びが原因と見られている。
石岡は大火により多くの文化財産を焼失した。今から400年以上前の府中城落城時に町中が火の海となって、中世の文化財の多くが灰となった。また、昭和4年の大火で駅から中町にかけて多くの建物が灰となってしまった。しかし、残った建造物も多くあるとともに、その後建てられた昭和ロマンの建造物が今も趣を添えている。
昭和4年の石岡市街でおきた大火は市街の1/3が焼失するという大きな被害を出した。1年後に今泉哲太郎・義文兄弟により「あゝ石岡大火災」として記録にまとめられ出版された。
忘れんとして忘れる事の出来ぬ昭和4年3月14日!・・・朝から吹きつけた西北の風は、午後になってますます勢いを加え、石岡の空は、もうもうと巻き上がる砂塵の煙におおわれて、太陽の光も陰惨な色に曇っていた。ちょうどこの日は、旧暦2月4日の初午にあたり”初午が早い年は火早い”という俗説をなす者もあって、各町内は稲荷祭りの社にさえ灯明を点さず、商家はもちろん、工場、浴場に至るまで1年1度の今日の日に限って焚き物を禁じ、全町はほとんど因襲的に火の戒厳令がしかれた日である。・・・・各戸はようやく夕飯を済ました7時30分ごろ、突然!電線を渡る風の響き?! そは何ぞ図らん。石岡町の心臓-中町の一角にあたって鮮血のような炎が天に向かってほとばしり出んとは。(あゝ石岡大火災より)

当時、中町の前野さん裏手から出火したことはわかりましたが、出火原因は特定されませんでた。折からのの風速15mの烈風に煽られて火は瞬く間に拡がって中町にあった細谷商店(油屋)の大きなドラム缶が爆発で中天高く舞い上がり、その油で一気にもえひろがってしまったのです。消防ポンプの放水の消火では間に合いません。消防本部も周りの家屋数棟を取り壊し延焼を防ぐのがやっとでした。結局606戸、1700棟を焼失して鎮火したのです。中町では丁子屋染物店の土蔵と神社の大鳥居のみが焼けずに残り、通りの前の高喜呉服店の土蔵は無残な姿となっていたとのこと。左地図は今の石岡中町付近の地図に火災被害のあった場所を大雑把に記載したものだが、富田町では府中酒造と隣りの北向観音は風向きが幸いし難をどうにかのがれたが、ここから貝地町方面に火が走ったのが見て取れる。