▼鹿嶋神社(かしまじんじゃ)茨城県東茨城郡城里町高久

歴史の里ロマン紀行(城里編)>


 ここ鹿島神社は蝦夷の大将「アテルイ(阿弖流為)」こと悪路王の面があることで有名である。悪路王がアテルイのことであるとは断定できないが、現在ではほぼ悪路王=アテルイと考えられている。ここに保管されている悪路王の面は恨みに満ちた壮絶な顔をしており、昔はミイラとして保管されていたと伝えられるが、鹿島神宮に飾られている面は、どこか異国人と思われるような面持ちをしている。

村社 鹿嶋神社 鳥居

この鳥居は神社の北側、すなわち東北側を向いていると思われる。常陸側から来ると鳥居が奥にあり、反対を向いているように見える。

 

 

 

<城里町指定文化財>

悪路王面彩彫刻

 当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782〜806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。

鹿島神社本殿彫刻

 鹿島神社の創建は光仁天皇の御代、天応元年社殿を造り休塚明神と称す。本殿彫刻は、廃寺となった吉祥院のものといわれ、中国の故事が巧みに表現されており、その精巧さは近隣では極めて珍しい。作者は不明である。昭和50年5月日光の名工によって塗りかえられた。

城里町教育委員会

悪路王-アテルイ(阿弖流為)

 昔大和朝廷が進出する前は常陸や東北は蝦夷(えみし、カイ)民族の土地であったとされています。蝦夷民族というよりも縄文人というべきかもしれません。都から多くの軍隊が派遣され、蝦夷は徐々に北へのがれました。しかし蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ)は強く、度重なる大和朝廷の大軍に大打撃を負わせました。しかし、征夷大将軍に任じられた「坂上田村麻呂」が今の岩手県平泉の奥の「達谷窟」に籠った蝦夷に攻撃をし、ついに阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)は部下500名を連れて投降したとされます。ここから先はいくつかの説があるようですが、この神社の言い伝えでは、悪路王は達谷窟で降参し処刑され、その首を都へ持って帰る途中、傷みが激しく、この田村麻呂が戦勝祈願をした鹿嶋神社に首を奉納したとされています。しかし、「日本紀略」では、降参したアテルイとモレは京都に連れて行かれます。坂上田村麻呂は二人の釈放を懇願し二人をもって蝦夷を統制しようと訴えたとされています。しかし、二人の武勇を恐れた朝廷は二人を延暦21年(802年)8月13日に河内国杜山(現在の大阪府牧方市)で処刑します。そして京都清水寺には二人の碑が建立されています。ではここにあったとされる悪路王の首のミイラはいったい誰のものだったのでしょうか。私は首が空を飛んだと考えています。そうです、平将門と同じです。処刑された首は夜な夜な恨みの形相で人々を震え上がらせたのでしょう。そしてある夜に空を飛んで胆沢まで帰る途中で力尽きてこの地に落ちたのでしょう。平将門も江戸に落ちたように。もちろん本当とは思えませんが、このような伝説が生まれても不思議ではないと思います。

 

 この鹿島神社本殿の彫刻は見事である。色彩も派手で、悪路王の面が置かれている神社には似合わないが、不思議な雰囲気を感じさせる。鶴、トラ、鯉などの生き物と中国の故事にでてくる人物が描かれている。まわりはひっそりとした木立の中に立っているので少し不気味なくらいの妖気が感じられる。

 

 この旧桂村の鹿嶋神社が何故「悪路王」の首が保管されることになったのでしょうか。地図でこの鹿嶋神社を探しても載っているものはわずかです。それ程知られていないような神社です。多くの書物には「悪路王」の悪とは昔は悪太郎などのように物凄く強くたくましいという意味であると解釈されるようですが、では何故悪路なのでしょうか。昔は道が悪かったのでこう呼ぶのでしょうか?私はこのまわりの地名にとても興味を感じています。

この高久地区の入り口側に「圷(あくつ)」という地名があります。また西側には「塙(はなわ)」の地名もあります。一般に「圷」は「下の土地」というように高台の下の川添低地に付けられる名前であるとされています。これは柳田國男氏の「地名の研究」に述べられています。私がこの地名に興味をもったのは、水戸の朝房山の麓に「木葉下」と書いて「アボッケ」と読む場所があります。この地名の由来についてはさまざまな説があり、大歩危などのボッケは崖を意味するアイヌ語からきたとも言われています。鈴木健氏の「常陸風土記と古代地名」などにも解釈が載っていておもしろい。

 

圷、阿久津、アクツ、アクト

この柳田國男氏の「地名の研究」を読んでみると、多くの地名を現代人は漢字からその意味を解釈するようになってきたため、本来の言葉の意味を知らないでいるように思えてなりません。圷、阿久津、悪田、悪太原、安久田などの地名がすべて同じように川添低地を意味した地名となっているといいます。また阿久戸、安久戸、悪戸などの地名も茨城から東北地方にかけて多く分布している地名だそうです。漢字は後から付けられたもので、発音から意味を感じる必要がありそうです。悪戸は悪途と書くようになり、悪土とも書かれています。悪路王の言葉もこのあたりから来たと解釈することもおもしろそうですね。鈴木健氏の「常陸風土記と古代地名」「日本語になった縄文語」などに説明されているアイヌ語から地名などを解釈するとうようなことも解釈に役立ちますが、このアクツが東日本に多いというのは少し解釈に困ります。なぜなら、アイヌ語、縄文語は沖縄や九州・四国地方などにも多く残っているからです。またすぐ近くに「阿波山」「粟」などの地名があることでも、ここが阿波(徳島)の忌部氏の影響が多く残っている地域であることも興味が湧きます。今から1300年以上前に黒潮にのって千葉(安房国)に上陸し、関東各地に進出していった流れとこの蝦夷征伐の流れはどのように流れていったのでしょうか。(2010.5.23 記)