▼喜八阿弥陀堂▼ <親鸞聖人ゆかり>茨城県小美玉市与沢

歴史の里石岡ロマン紀行(小美玉・行方編)>


 ここは個人宅の阿弥陀堂である。場所は小川を通る県道8号線を与沢から倉数へ向かう途中、橘郵便局の先を左に回り込むような田んぼの脇道沿いを進んで右上の山側に少し登った所にある。案内板は近くにない。ここには高浜の爪書き阿弥陀堂と同じような親鸞聖人の話が伝わっている。親鸞上人は稲田(笠間市)の草庵から鹿嶋神宮や幽霊図が残されている無量寿寺(鉾田市)などに通われた道であったようだ。

 

 

 

 <親鸞聖人と喜八阿弥陀堂のいわれ>

むかし、与沢に住んでいた豪族の長島喜八という人の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。

残された子供たちはまだ幼く、下の女の子はまだ一歳くらいの乳飲み子で、毎日お乳を求めて泣いていたそうです。

そのうち、夜になると亡き妻が亡霊となって喜八の枕元にあらわれ、しきりに「子供をたのみます」と訴えます。このため、喜八をはじめ親族たちは寝ることも出来ずに困り果ててしまいました。

そうしているある日に「親鸞という偉いお坊さんが、鹿島明神へ参詣する時に近くを通られる。」と言うことを聞いて、聖人がお通りになるのを待ち受ておりました。

やがて聖人が粗末な衣をまとってやってきました。しかし親鸞は「今は参詣の途中なので、帰りにここに立ち寄るので、小砂利を墓前に運んで待つがよい」といって立ち去りました。

参詣を済ませた聖人は、約束どおり喜八の屋敷を訪れ、用意された小砂利の中から一つの石を手に取って梵字を書き、「吾が仏法盛んならば此の石残らず写れよ。」と唱えながら石を墓の中に埋めました。

また聖人は喜八の屋敷に戻ると、阿弥陀如来、聖徳太子、善導大師の三幅を描いて立ち去ったといいます。それ以来、妻の亡霊はあらわれなくなったのだそうです。

 親鸞聖人が梵字を書いた小石を埋めたという所が「経塚」、喜八が親鸞聖人への感謝をこめて建てた阿弥陀堂が「喜八阿弥陀」といわれています。  

 

 

    茨城県指定有形文化財

    親鸞聖人直筆絵画三幅

 一、記号番号 絵四十四 絹本着色 阿弥陀如来画像

 一、記号番号 絵四十五 絹本着色 善導大師画像 

 一、記号番号 絵四十六 絹本着色 聖徳太子勝髪経講讃図

由来

この絵画は鎌倉時代前期親鸞聖人が稲田山より鹿島参詣の際、与沢むら喜八の妻が難産で死亡その亡魂を化道するため自画自賛し喜八に給わったものといわれている。毎年正月十六日ならびに盆の十六日、年二回御開帳を行っている。

保存管理者 小川町大字与沢776 長島嘉彦

小川町教育委員会


小川町(小美玉市)指定 経塚

今から600年の昔、一男一女を残して難産で死亡した、長島喜八の妻が毎夜霊となって、夫喜八の枕辺に現われ、子の養育をしきりに訴えるので、喜八は親鸞聖人往来の時、聖人に御化導をお願いした。 聖人は浄土三部妙典を小石に書き写して塚に埋めさせた。それ以降は霊は現れなくなったという。  (この経塚は行方方面に行く道の途中にある)

 

小川町(小美玉市)指定史跡 南坪貝塚 (小美玉市与沢772番地1)

 霞ヶ浦の北部約3km東側に梶無川が流れる台地上にある。 約2ヘクタールぐらいにわたる貝塚で、明治39年高江見水蔭氏による発掘調査が行われた。出土遺物は鹿・猪等の獣類遺物、女体土偶、石棒、石匙、凹石、石皿等も出土している。