<親鸞聖人と喜八阿弥陀堂のいわれ>
むかし、与沢に住んでいた豪族の長島喜八という人の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。
残された子供たちはまだ幼く、下の女の子はまだ一歳くらいの乳飲み子で、毎日お乳を求めて泣いていたそうです。
そのうち、夜になると亡き妻が亡霊となって喜八の枕元にあらわれ、しきりに「子供をたのみます」と訴えます。このため、喜八をはじめ親族たちは寝ることも出来ずに困り果ててしまいました。
そうしているある日に「親鸞という偉いお坊さんが、鹿島明神へ参詣する時に近くを通られる。」と言うことを聞いて、聖人がお通りになるのを待ち受ておりました。
やがて聖人が粗末な衣をまとってやってきました。しかし親鸞は「今は参詣の途中なので、帰りにここに立ち寄るので、小砂利を墓前に運んで待つがよい」といって立ち去りました。
参詣を済ませた聖人は、約束どおり喜八の屋敷を訪れ、用意された小砂利の中から一つの石を手に取って梵字を書き、「吾が仏法盛んならば此の石残らず写れよ。」と唱えながら石を墓の中に埋めました。
また聖人は喜八の屋敷に戻ると、阿弥陀如来、聖徳太子、善導大師の三幅を描いて立ち去ったといいます。それ以来、妻の亡霊はあらわれなくなったのだそうです。
親鸞聖人が梵字を書いた小石を埋めたという所が「経塚」、喜八が親鸞聖人への感謝をこめて建てた阿弥陀堂が「喜八阿弥陀」といわれています。
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