▼常陸国分尼寺跡▼ 石岡市若松3丁目

歴史の里石岡ロマン紀行


石岡駅方面から若松町の通りを府中中学校の方へ向かっていくと三叉に別れる交差点がある。この交差点に小さな道標が置かれている。国分尼寺へはこの信号を斜めへ入った府中小学校の校舎のすぐ裏手にのどかな広い公園として広がっていた。またこの入り口を通り過ぎて道をそのまま進むと鹿の子遺跡の案内板がある。

<追分石>

宇都宮街道への分岐点に置かれた追分石である。昔は街道の分岐点にあったが、今残るものは少ない。

正面・・・
左かきおか まかべみち
右側・・・
右 うつの宮かわらい道
裏側・・・
元文二年 巳四月日

常陸国分尼寺跡 (国指定特別史跡)

 所在地:石岡市若松三丁目1番
 指定年月日:昭和27年3月29日

 国分寺・国分尼寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
 国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町によってまかなわれた。一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多い。
 常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。昭和44年から4次にわたる発掘調査により、各建造物基壇の規模や南大門跡、北方建物跡、西及び北を限る溝跡などが明らかにされている。
 発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが多い。また、土器の中では、「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。国分尼寺のあった場所は昔尼寺ヶ原(にじがはら)と呼ばれており、後に市街地に移った清涼寺もあった。

 全国に国分寺跡はかなり現存していますが、このように国分尼寺跡がそのままのこされているところは非常に少なく、備中(岡山県総社市)とここ常陸(石岡市)だけである。特に常陸は唯一国分寺跡と共に国の特別史跡に指定されています。現在は訪れる人もほとんどなく桜の古木が2つ、春にはきれいな桜の花を咲かせてくれる。(2007.4.8撮影)

国分尼寺は光明皇后の強い願いで建立され、「法華滅罪之寺」という。総国分寺が東大寺であるのに対し、総国分尼寺は法華寺である。(2007.4.1撮影)

下の写真の向こう側の建物は府中小学校です

滅罪之寺とは光明皇后が、当時兄弟の多くを天然痘で失い、また甥の反乱などが起こり不幸が続いたことに対し罪(災い)の消滅を願って立てたことに由来します。 国分尼寺が何時消滅したかははっきりとしていないようです。平将門がここ府中を攻めて町中が焼かれた時は焼けなかったようです。9世紀頃から廃れていったものと思われます。
<黄金伝説>
 
国分尼寺跡の付近の尼寺ヶ原(にじがはら)に「ごき洗い」と呼ばれるくぼ地がありました。 “ごき”とは、「御器」と書き、 「ごき洗い」は、食器などを洗った池があったためにそうよばれていたものでした。
 府中城の大掾氏が佐竹義宣により滅亡に追い込まれた時(1590年)、この国分尼寺も兵火で七堂伽藍焼失してしまいました。
 国分尼寺では、火の回りがあまりにも早く、全部の物品を持ち出すことができず、大切な仏像、金と銀で作られた調度品や装飾品などを炎の中から運びだし、略奪から逃れるため、全てごき洗いの池に投げ込まれたと伝えられています。しかし、兵火の中で尼僧や寺院の関係者は全員死亡し、ごき洗いの池も焼け落ちた瓦や木材で埋まってしまいました。そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられています。
 江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。仏罰を恐れた人々はそれ以来誰も掘ろうとはしなかったといわれています。
 朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体
 尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌です。(市報いしおか No344より 一部抜粋)