▼子安神社・胎安神社▼ かすみがうら市東野寺252/西野寺434

歴史の里石岡ロマン紀行


子安(こやす)神社と胎安(たやす)神社: 共に歴史の古い子授け・安産祈願の神社

かすみがうら市(旧千代田町)にある共に1000年以上の歴史をもつ奈良時代より伝わる由緒ある神社です。

 

子安(こやす)神社

<御祭神>木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、武甕槌命(タケミカズチ)

<歴史>創建は807年(大同2年)平安初期で、安産の神様として子授け・子育てにご利益があります。ご祈祷は予約が必要です。雰囲気を持っている。大同2年、鹿島大神と駿河国冨士浅間大神の御分霊を鎮斎。源頼義父子征奥軍が、三村正月平(現石岡市三村)に宿営、たまたま正月七日の大祭礼に際会。あまりの賑やかさに里人に尋ねたところ、当神社の由来を聞き、感銘した父子は早速流れに架橋し(子安橋)神主に依頼し、朝敵降伏、国家安泰の祈祷をさせた。また、康平6年征奥の退任を終え、凱旋の折、当社に奉賽。社殿修営、祭祀料の寄進をしたと伝えられている。

例祭> 9月3日・4日。3日は太々講祈祷、両日近郷近在の「子安講中」の人々で終日賑わっていたという。午前中は拝殿が埋まるほどであった。しかし今は昔程の賑わいはなく、祈祷の太々神楽(巫女舞)は、1970年代頃から中断し、祭りも9月3日だけとなった。各地の「子安講」の取りまとめ的な存在でもある。
 本殿開扉の際、きしむ音高ければ出生子少なく、低ければ多く安産なり。授与される腹帯、赤ならば女子、白ならば男子と崇敬者に信ぜられている。

胎安(たやす)神社

<御祭神>木花開耶姫命 経津主命(配祀)大山祗命 彦火瓊々杵命・彦火々出見尊(胎内安全の神、安産育子の神、美を招く神、子に恵まれる神、良縁を得る神、子孫長久繁栄の神、御婦人一生の運命を定める神)。

<歴史>創建は763(天平宝字六)年9月に木花策咲耶姫を祭神とする山城国梅宮神社の分霊が始まりとされる。1054(天喜2)年には、鎭守府将軍陸奥守源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州征討の時に隣村の詩下雫村(下志筑)に在陣中に胎安神社の霊験著しいことを聞き、都にある内室の安産祈願をし、嫡男を無事出産したため、康平6年(1064年)に大任遂行の帰路報賽し、嫡男の誕生日である9月9日を祭日と定め、源氏の紋章である「笹竜胆」(ささりんどう)の使用を許されたと伝えられている。また志筑の領主本堂家も内室懐胎の折に代参をたて、年に3度参拝したとの記録がある。又本神社を式内社「夷針神社」とする説があり、「にいばり」の地名もそれに因るものと見られている。

例祭> 3月3日午前9時〜午後3時「春の例祭」が開かれる。子授け・安産をはじめ学業成就、商売繁盛などの祈願が行われるほか、参道には多数の露店が並び氏子衆が甘酒とあんパンを無料で振る舞う(2008年)。

6号国道を石岡より土浦方面に恋瀬橋を渡った先を左に曲がる。昭和49年の茨城国体の時に整備された通称国体道路へ続く道を1km程行ったところに案内板に従って左に曲がるとすぐ参道の入口がある。参道は2〜300mほど左右に樹木が茂り気持ちのよい雰囲気を持っている。

子安(こやす)神社入口:左右に古い木立の雰囲気のある長い参道が続く。

 

 子安神社より神立(土浦)側に500m程行った右側に大きな鳥居が立っている。ここが胎安神社の参道入口である。鳥居をくぐってそのまま進み、突き当りを左に回り込んだところに神社がある。「お伊勢さんをお参りしましょう」の赤い立て旗が目立つ。

本殿前にある神社門


参道の中間地点にある鳥居。鳥居の周りの樹木は良く見ると椿の樹が多いのに驚かされる。


拝殿。北向である。手前の大木は向かって左側はケヤキ。右はイチョウである。ケヤキ(欅)の木は境内にその他数本の大木が残っているが、拝殿前のこの巨木は数年前に上部が折れ、また今年の強風(爆弾低気圧)で少し幹が崩れてしまった。樹齢は不明だが1000年以上経っているようである。


 

拝殿。南向である。左の杉の木は「長寿不老の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫入着用すると、長寿を保ち、常に元気を続けられると言われている。また、境内にある松の古木は「子持ち松」といわれ、この松を抱くと子なき婦人も子持つと言われてきました。

拝殿。本日は扉が閉じられていたが、前来たときは開けられていた。この時は本殿と神社入口との参道を往復しておまいりするお百度参りの人の姿が見られた。

境内にある樹齢六百年の神木「子持松」を抱くと希望がかなうといわれており、子授けや安産を願う参拝者が県内外から数多く訪れている。

拝殿裏側の古い本殿。江戸初期の建立と思われる本殿は、花鳥、唐草、龍、人物などの浮彫り、透彫りの彫刻で囲まれ、わずかに残る塗料の跡から極彩色に彩られ、豪華絢爛に埋め尽くされていたと思われている。

拝殿内部の掛け絵。歴史の古さが伝わってくる。

拝殿前の左右にある巨木(ケヤキ)はその年輪を感じる。苔むした拝殿前の雰囲気も良い。

拝殿の内部と掛け絵(撮影:2008.3.1 例祭の前々日)

拝殿手前左側の椿の大木。花は少しまばらであるが大きな椿の木は見事であった。

神社手前の鳥居(通り側の鳥居とは別に拝殿に真っ直ぐつながる形で配置されていた)。

拝殿右側奥に「タブの木」が立派な枝振りで見事である。

このあたりに群生する縞篠(しまざさ)は源氏の紋章「篠竜胆」(ささりんどう)を神社の紋章として使用が許されたころからあったもので、子孫繁盛を表象していると伝えられ、大切にされている。

神社一の鳥居。通り沿いに建つ。3月3日の例祭を終えて、しめ縄が飾られている。右側の梅の木は少し前まで綺麗な花をつけていた。(撮影日:2008.3.22)

2008年3月の大型の低気圧の影響で強風が吹き荒れた翌日ここを訪れました。ちょうど宮司さんがおられ話をお伺いできました。それによると子安神社と胎安神社との間の道は「鎌倉街道」といいやっと馬が通れる狭い道であったようである。国分尼寺方面からかすみがうら市の江子田地区の方へ行っていたようである。関東には「いざ鎌倉」の鎌倉街道は各地に残っているがここでも神社では通称鎌倉街道と呼んできたようである(現在は土浦とつながって国体道路の方が一般には知られている)。宮司さんのお話では、何年か前に本殿の装飾用の飾り物が盗まれて無残な姿となってしまったと嘆いておられたのが印象的でした。現在、本殿は手前の拝殿の裏側に隠れていますが確かに寂しい趣となってしまっています。

 

胎安神社のHPを見つけました。子安神社との関係も詳しく書かれており大変参考になります。詳しくはこちらをご覧下さい。