▼丸山古墳(県指定史跡)▼ 石岡市柿岡字丸山4127

歴史の里石岡ロマン紀行


県指定史跡「丸山古墳」(4世紀末から5世紀初頭)

石岡市街方面から竜神山を左に見ながら八郷方面に進み林地区を過ぎると急に視界が広くなり筑波山(877m)と加波山(709m)が目の前に広がる。林の高台を下ったところが柿岡である。柿岡の町へ入ると案内板に従って右へ入る(旧八郷町役場方面)。そのまま真っ直ぐ案内に沿って進むと佐志能神社への階段と鳥居が見える。車の場合は左右にまわれば上のほうに出れるようであるが、ここは下から三つの鳥居をくぐって急な階段を登ると佐志能神社へ出られる。丸山古墳(1号)は神社の左奥に位置する。

丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の流域に展開する広大な沖積地に南面して、柿岡の高友丘陵の景勝の地に占める全長55m・高さ7mの全公園方後方墳で、古くから嵩神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城として伝承され、古墳の近くに鎮座する佐志能神社とともに顕彰されてきた。昭和27年12月明治大学後藤守一教授の指導の下に学術調査が行われ、その結果、後方部の墳頂下約2mの地点から粘土床が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅銭、勾玉、鉄刀、刀子などの副葬品が出土した。これらのことから、丸山古墳は前方後方という珍しい墳形であるとともに、副葬品の内容などから、五世紀の初頭の頃に築造された県下でも代表的な古式古墳となっており、東国の古墳時代研究には欠かせない存在である。(昭和55年11月 石岡市教育委員会)

史跡・丸山古墳と佐志能神社

高友の丸山丘陵の中央の丸山古墳と佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に大きな業績を残された第十代嵩神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、命(みかど)を奉斎した杜として、古くから崇敬され保存されてきた。佐白塚古墳、二子塚古墳等ゆかりの古墳役三十基を丸山古墳群と称する。副葬品は柿岡考古学博物館に保管、一般に展示公開されている。

古墳は周りをフェンスで囲ってあり、中には入れない。一帯は公園化がされきれいに整備がなされている。また平成13年にふるさと創造事業として「古代散策ロード」と名前がつけられた行程5.7kmの道続いている。約2時間20分程の所要時間であるので時間があれば散策するのも良い。見所は県天然記念物「佐久の大スギ」「丸山古墳」「佐白塚古墳」などであるが、眺めも良いようである。

 古墳の手前に立てられた万葉歌碑

「庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れ給ふな」



 二子塚古墳

円墳は丸山古墳(丸山1号墳)の東方30mに位置する。古墳としては横穴式石室を有する中規模の前方後円墳であり、主軸を西北方を示し、丸山古墳及び筑波山に相対して築かれている。墳丘からはきめ細かな年度を用いて焼かれた円筒埴輪や形象埴輪(人物・馬)など出土している。県内の横穴式石室を有する前方後円墳としては、比較的早い時期に築造されたものと考えられている。
(全長35m、後円部径20.5m、高さ3m、前方部端幅18m、高さ2.7m)

  二子塚古墳より丸山1号古墳を望む

佐志能神社入口の鳥居と階段