当耳守神社は千年の昔よりこの地に祀られ郷中の厚い宗敬と四隣の人々の信仰を集め特に耳を患ふ者に霊験灼な四カ村の耳守様と広く世に知られ碑の裏面に見る様に随分遠方よりの参詣者も有るお宮でその縁起を記すれば次の如くである。
第五十代桓武帝の後胤常陸大掾平国香の直孫田餘郷の豪族飯塚兼忠の娘千代姫幼少の砌耳が不自由なりしも両親の断食祈願の甲斐あって熊野権現の神徳を得人一倍聞こえる様になり館の耳千代様と親まれその聴力には人々も只々感歎するばかり。 三十三厄年不幸病に罹り病状は日毎に悪化自ら不治を悟り「我亡き後になるならば一社を祀り給われかし耳の病を守護せん」と言葉を残し世を去った遺言通り両親は栗俣上郷の地に社を設け耳守と号し神事を行い飯塚家代々之を継承した。幾星霜戦国争乱時代天正十八年二十四代大掾清幹は佐竹義宣の大軍に敗れ府中城に滅亡同族の飯塚家も田木谷砦に滅び耳守の祭礼も跡絶しが地元民により復活神事が守り続けられた斯くして四百年近くの歳月が流れ昭和も五十年代古い社殿は屢々(しばしば)修復を加えしも年毎朽ちて修繕も不可能にて廃屋に近く社域荒れ段石崩れて参詣の人も稀となる 此の様に祖先の遺した信仰の宮居を粗放した事を深く省み上郷氏子27人相諮って再建を決意同額拠出して基金とし広く奉賛を仰いで236名の寄進を得新殿淨成神域整備を寛政し57年12月5日遷宮の儀を執り行ない更に上郷氏子特別寄進により此の碑を建立芳名を刻して神前に奉じ耳守の霊験もって衆生安泰弥栄を祈念し神社再建の記念となす。
昭和58亥年(1983)12月吉日 衆議院議員 赤城宗徳謹書
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