▼大乗妙典日本廻国供養碑(六十六部)▼石岡市染谷染谷1111の2番地

歴史の里石岡ロマン紀行


 本供養碑は風土記の丘公園から石岡駅の方向に歩いて戻る途中染谷地区で偶然見つけたものである。場所は風土記の丘の前の通りを東(駅方面)にまっすぐ進み、恋瀬側に架かる粟田橋(現在工事中)の方面に右折せずにそのまま真っ直ぐ東へ進み、坂を少し上ったところにあります。「大乗妙典日本廻国供養碑」と長い名前が付いており、何のことかわかりにくいと思われますが、下の立て看板の説明を参照下さい。

 

日本地図が刻印された石板は写真の中央です。石板は苔むして判別がわかりにくいが、法華経の経典を奉納した国を日本国地図に記して残したものであることが見て取れます。地図は当時(江戸時代初期)にこのあたりにもこのような日本国地図が存在し、これを写したものと考えられる。伊能忠敬が九十九里(千葉県)に生まれたのは1745年年ですから、その50年以上前にこのような地図が流布していたものと思われます。

大乗妙典日本廻国供養碑 日本地図線刻入
  市指定有形文化財(歴史資料)


 この碑に刻まれている六十六部(六部)とは、法華経を書写し、全国六十六箇所の神社仏閣をめぐって、その法華経を奉納する行脚僧をいう。その起源については明らかでないが、中世から近世にかけて巡礼の流行にともなって生じたものと考えられる。
 伝承では、この碑は、須賀田庄右門が自ら日本廻国の成就を記念し、元禄七年(1694)に建立したものといわれる。現在もこのあたりは六部台と呼ばれ、六十六部との関連が知られる。
 大乗妙典日本廻国供養碑で詳細な日本地図が線刻されたものは、全国的にもめずらしい。

   昭和60年3月
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会


この場所は須賀田家の墓所であり、写真の堂の裏側は歴代のお墓があり、堂の右手の境に上記の石板が無造作に立てかけられています。最初に訪れた時は急に雨が降ってきたのでこの堂でしばらく雨宿りをさせてもらいましたが、石板などは風雨にさらられていました。歴史資料として保存も検討すべきではないでしょうか。

六十六部が法華経の写本を66冊すべて自ら行なって、それを全国66カ国の寺院などに置いてまわったかどうかは明らかではないが、中世から布教が始まったこの布教活動がかなりの難行苦行であったことは容易に推測できます。66カ国は最初は全国の国の数であったことも考えられますが、国の数は途中で増減がありますので、どことは限ったものではなかったようです。また経典をおさめる神社仏閣も最初はその国の一宮が中心であったようですが、全国への布教の目的から徐々に周りの寺院などに広がっていったものと考えられます。全国には布教の途中で倒れる六部もおり、その供養碑が多く残されています。ここの供養碑は、全国行脚を終えて記念に作成されたものと考えられます。