▼大矢橋事件-佐竹義政の首塚▼ 

歴史の里石岡ロマン紀行


石岡市から笠間へ抜ける通称笠間街道(県道355号)の小美玉市(旧美野里町)との市境を流れる園部川で1180年に事件はおきた。今から800年以上前の事件である。源頼朝が挙兵し、関東を制圧する流れの中での権力争いが事件の発端である。常陸国は平氏・源氏と色を染めるにはお互いの氏族が絡まっており、歴史に翻弄されてきたとも言える。この事件を足がかりに頼朝は関東から京に進出し、鎌倉幕府を築くことになるのである。 (撮影:2007年10月)

 

首塚の東(写真右)には旧大矢橋を残してある。数年前に新しい橋に架け替えられたが、橋とその前後の道路を通行止めにして保存している。当時の状況を考えるのにはあまりにもひっそりと祠が祭られており、すぐ左に新しい橋と道路ができて、車からもここに史跡があることもほとんど見過ごしてしまうような位置である。近くに車を停めて漸くその位置が分かった。歴史の流れが大きくゆったりと時を刻んできたとの思いが強くなった。

 

治承4年(1180)11月4日、源頼朝は佐竹氏追討のため常陸国府に到着した。佐竹氏は太田(現常陸太田市)を本拠に奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していた。佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城(現金砂郷村)にたてこもった。秀義の兄義政は縁筋にあたる上総介広常の勧めで帰順し、頼朝との会見のため国府(現石岡)に向かったが、園部川にかかる大矢橋で謀殺された。大矢橋の西に義政の首塚、行里川に胴塚と伝えられるものが残っている。

昭和61年3月   石 岡 市 教 育 委 員 会 

          石岡市文化財保護審議会