▼佐久良東雄旧宅▼ 石岡市浦須314-1

歴史の里石岡ロマン紀行


国指定史跡「佐久良東雄(さくらあずまお)旧宅」

石岡市街方面から柿岡の市街へでる少し手前(恋瀬川を渡る少し手前)の右側に小さな標識があるので右に曲がってそのままくねくねとした道に沿って進むと右手に案内板がある。ここは浦須地区である。

佐久良東雄(さくらあずまお)は幕末の勤皇歌人(熱烈な愛国者)である。本名は飯嶋であり、今もこの生家は飯嶋姓の子孫が守っている。若くして(9歳)仏門に入り、15歳で万葉和歌を得度し、22歳で近くの観音寺の住職となり、25歳にして土浦の寺(善応寺)の住職となった。しかし、この頃から王政復古への思いが強く、土浦藩、水戸藩などの藩士や国学者など多くの友人との親交があった。32歳で仏門より還俗し、その脚で鹿島神宮へ参詣し、桜の樹千株を奉献する。この桜は今も東雄桜として鹿島神宮の鹿園の反対側の森に残っている。佐久良(さくら)の名前はこの桜からとったものであろう。

東雄はその後関西に移住し、尊王思想の普及に努めた。1860年の桜田門外の変に参加した水戸浪士たちの支援行い、浪士をかくまった罪で捕縛される。獄中で死去する。

国指定史跡「佐久良東雄(さくらあずまお)旧宅」

佐久良東雄は、文化8年(1811)に当家で生まれ、幕末に活躍した憂国勤皇の歌人である。本姓は飯嶋氏、名を吉兵衛という。幼少の頃から文学の才に優れ、日本の古典を学び、勤皇の志を深めていった。天保6年(1835)土浦真鍋の善応寺住職(僧籍名良哉)になってからは、土浦藩をはじめ、水戸、笠間藩、遠くは九州の各藩、そして江戸・京都などの有志が訪れたという。しかし、王政復古の念やみがたく、天保14念(1843)には還俗し、名を靱負(ゆきえ)と改め、大阪の座摩神社の神官を務めつつ国事に東奔西走した。桜田門外の変後、幕史に捕らえられたが「吾、徳川の粟を食(は)まず」として食を断ち、万延元年(1860)6月27日に獄死した。享年49歳。明治31年、従四位追贈された。主屋・長屋門・土蔵そして生垣をもつ屋敷構えは、いかにも旧家らしい風格を感じさせる。主屋は桁行八間半、梁間四間半、茅葺の寄棟造で、当地方の代表的な古民家でもある。建設年代は、長屋門とともに、18世紀中期頃と推定される。

平成17年3月  石岡市教育委員会

 駐車場横の生垣。紅葉がきれいだ。(2007.12.2撮影)



 主屋は今も使われている。入口横の棚の上は漬物用に白菜を切って干していた。

佐久良東雄の墓(土浦市善応寺)

東雄の遺体は罪人として取り扱われたが、後に徳川(水戸)家の援助で大阪の天王寺に埋葬された。その後いくつか改葬されたが、昭和7年(1932)に土浦の善応寺に改葬され、忠霊堂が建設された。東雄の隣りには大久保要の墓もある。歌人としても評価は高く、佐々木信綱は「勤皇家中第一の歌人」と賞している。

「天皇に仕へまつれと我を生みし我がたらちねぞ尊かりける」
(天皇にお仕えせよと私を生んでくれた私の母はなんと尊い人であろうか)