▼盛賢寺▼ 石岡市大字井関1024番地

歴史の里石岡ロマン紀行


 盛賢寺(せいけんじ)は通称を霊通山無量寿院といい、真言宗豊山派に属する。もと醍醐三宝院末阿弥陀堂、盛賢寺のある井関は旧水戸藩領で、元禄二年藩主光圀が領内巡視のときこの阿弥陀堂が立派なのを見て那珂郡額田から引寺して盛賢寺を開山したという。天明4年(1784年)類焼、翌年に再建したもの。はじめは修験道場として栄えた。江戸時代に入り、祈祷道場となり、善男善女の参拝者が多くなった。
 昭和53年に石岡市指定文化財となった。また、昭和58年には阿弥陀堂が修復され、茅葺から銅板葺となるが、原型はたもたれ山中に威容を誇っている。

 木造仁王像(彫刻)

 仁王像は偉大な力をもつ金剛杵を手にし、二体ならんで寺門の入口を守るので二王ともいわれなじみ深い。
 像容は、上半身裸体で、頭髪はかずらを結び、金剛杵をふりあげて念怒の相を示している。本来、密迹金剛で「密迹」とは仏に近侍し秘密の奇跡を知る意味がある。市内においては良く保存されている仁王像として貴重である。

 

(2007.8.26 撮影)

 盛賢寺の文化財

 盛賢寺は、元禄2年(1689)徳川光圀の命により、那珂郡額田村(那珂町)より曳寺し、玄盛和尚を中興として開山したといわれる。その後、慶応年間(1865〜1868)から明治初年にかけて無住となり、過去帳はじめ文書や仏具類が散逸した。
 境内にある阿弥陀堂の縁日は旧暦の正月15日と7月15日で、とくに正月15日の縁日は「嫁くらべ」と呼ばれた。その年に嫁をもらった家では、阿弥陀堂に参詣し、おたがいに嫁自慢をしたといわれる。
 寺宝には、開山のとき光圀より拝領したという伝狩野正信の「十六善神」の絵画、伝春日仏師作の阿弥陀如来像がある。

*市指定文化財(昭和53年9月11日指定)*

盛賢寺阿弥陀堂(建造物)
 以前は茅葺であったが、昭和58年銅板葺に修復された。
      石岡市教育委員会
      石岡市文化財保護審議会
 

  成賢寺は元禄2年(1689)に水戸光圀が領内巡検の際、現在の那珂市から移転建立させたものです。天明4年に焼失、翌年に再建され、現在に至っています。昭和58年には阿弥陀堂の修復が行われ、茅葺の屋根が銅板に葺きかえられました。

 本寺院には大日如来座像が本尊として祀られており、天井裏には天女の彩色画が描かれています。