▼清涼寺▼ 石岡市国府立6-2-3

歴史の里石岡ロマン紀行


 清涼寺は石岡の中町商店街の丁子屋の先を右に曲がったところにある。隣は国府公園が広がっている。通り入口の看板は「清涼禅寺」である。茨城廃寺の礎石がここにもあると聞いて探してみたがわからなかった。この府中の町や寺院は天正18年(1590年)に大掾氏が佐竹氏に攻められ、府中城が消失したときに、そのほとんどが消失した。清涼寺の歴史は大掾高幹が元徳2年(1330年)に尼寺が原(今の府中小学校横の国分尼寺の地)に建立したものを文明12年(1480年)ごろ現在の地に移したもの。府中城落城(1590年)にて焼失したが、その後府中城主となった佐竹(南)義尚が菩提寺として文禄元年(1592年)に再建した。徳川家康により秋田に転封となっとき南義尚は秋田の湯沢に移され、清涼寺も湯沢にうつされた。佐竹氏が秋田(出羽)に移封となったのは1602年であるので、この地での清涼寺を菩提寺としていた期間は約10年間であった。このため石岡の中では数少ない佐竹氏の面影の残る場所でもある。禅寺の入口戸などには、佐竹氏の家紋である「月丸扇(日の丸扇)」(下の写真)が見られる。
 現在清涼寺は曹洞宗の禅寺で「興国山清涼寺」という。文亀元年曹洞宗に改宗して、大本山永平寺開山道元禅師十六世法孫寒室永旭大和尚を請して清凉寺開山とした。


 山門に「市中禅林」の扁額が揚げてあるが、これは昔地方の雲水(修行僧)が集まって修行した僧堂をあらわしている。

清涼寺の横、裏手は沢山の墓が置かれており、旧府中藩の所縁のものも多く置かれている。右は「府中藩最後の家老岡部為綱の墓」である。裏手の墓地から旧府中城を望むと今はすぐ目の前にはスーパーが建てられておりその先に旧府中城の土塁跡と思われる茂みも確認できた。隅にひっそりと残されていました。

清涼寺の古狢(ムジナ)の話

 今から、およそ100年ほど前、この清涼寺には一匹の古狢がすんでいたという話がある。その頃の同寺は、境内に大杉や大樫、欅、銀杏がうっそうと繁り、本堂北側一面は大竹薮であったという。この竹薮の中に小さな池があり、その池の側には穴があって古狢の巣になっていた。その古狢は、夜になると大杉に登っては、お月様に化けたり、また、あるときは通行人に砂をかけたりなどいたずらをしていた。この境内の南側には長屋があり、そこに、大変、鴉(カラス)の鳴きまねが上手なために、だれも本名では呼ばず「鴉の長さん」と呼ぶ正直者が住んでいた。ある晩のこと、その長さんの雨戸をトントンと叩く者がある。耳を澄まして聞くと「鴉の長さん、啼いてみな。鴉の鳴声やってみな」としきりに叩く。長さんは「はてな」と、不審に思い雨戸をあけたが、表には人の姿が見当たらない。おかしいな。たしかに呼ばれたはずなのにと、境内のあちこちをさがしてみても、それらしい人の姿を見つけ出すことはできなかった。ふと、空を見上げてみると、ただ、大空には、夜ふけの月が笑っているばかりであった。 (右へ続く)

 

翌日になり、今夜からは、作晩のような不思議なことは起こらないないだろうと思っていた。ところが、その翌晩も、つぎの晩も、トントンと叩くので、そのしつこさに、あきれてしまった。し、今度は、戦法をかえて、いっそのこと、いくら叩いても黙っていようと心に決めた。すると、返事がないのでおもしろくないせいか、いつしか、そのまま帰ってしまうようになった。それから何日かたったある日、近所の若者や子供たちが集まって、狢を退治する方法について知恵を出し合い、とうがらしでいぶしをかけて狢退治をすることになった。若者たちは池の側へ集まり穴へいぶしをかけて「古狢奴!ござんなれ」とてぐすね引いて今か今かと、狢が穴からいぶしだされるのを待ち構えていた。すると、本堂の方から古狢でなく、急に大声で怒鳴る声がきこえた。その方へかけ寄ってみると、こわい顔の方丈さん(住職)が「こら!、お前たちなにをするか、本堂が煙でいっぱいじゃ。涙とくさみがでてかなわんのじゃ」その恐ろしい見幕にみな驚いて後もみずに一目散に逃げ去った。それ以来、どうしたわけか狢はなにごともせず姿をみせなくなった。きっと、あの本堂の方丈さんこそ、退散する狢の最後の化け姿ではなかったのか、今でも語り草となっている。