▼都々一坊扇歌(初代)▼ 都々逸の始祖

歴史の里石岡ロマン紀行


 都々一坊扇歌は、江戸時代後期の文化元年(1804年)、久慈郡佐竹村(現常陸太田市)磯部の医師、岡玄作(策)の次男として生まれた。上には姉が二人おり、4人兄弟の末っ子で子之松(生まれた文化元年が子年であったため)といった。父の玄作は一風変った医者として数々の所業が伝わっている。玄作の生まれは下野国(しもつけのくに)那須郡大内村の酒屋の次男として生まれた。若い頃に医者になる志をたて、当時、名医の誉れが高かった水戸藩医、南陽・原玄瑞の弟子になって、医術の修行を積んだ。南陽は和漢、オランダの医学に通じた名医で、専門著書もある大家だった(著書「砦草」は野営などの軍の医学書として始めての書であり、鼠や狂犬病などについて記した臨床書などがある)。玄作は生まれつき才能も富んでおり、修行にも人一倍はげんだため、先輩を尻目に早くから頭角を現していた。7年で300人もいた門弟の中で筆頭に記されるまでになった。あるとき、江戸の本屋に珍しい医学書が入ったと聞いて、南陽は玄作に四十両を持たせて、その書を買い求めに江戸へ行かせた。江戸に出た玄作は、日本橋の近くに宿をとり、好きな歌舞伎を見にいった。すっかり本場の歌舞伎にはまってしまった玄作は江戸の三座といわれる市村座(堺町)、中村座(葺屋町)、森田座(木挽町)をすべて見物し、芝居見物の後は茶屋で酒を呑み、そのうち吉原通いまではじめたため、とうとう預かった四十両は底をつき始めてしまった。なかなかかえって来ない玄作に南陽からは早く帰れの催促まで来て、困った玄作は本屋に頼み込んで、七巻もあるその医学書を読ませてもらい七日間で全ておぼえてしまったのである。
  そして水戸を出てから35日目にようやく戻った玄作は、江戸でのことをありのままに報告し、医学書の内容をすらすらと口述したので、南陽は呆れるやら、驚くやらで、玄作の口述を聞き終わった後、「七日の間に、それを残らず書いて提出しろ」と命じた。すると、玄作は、「金を注ぎ込んだ吉原学問の方はどうしますか。やはり、書いて出しましょうか」といったので、南陽は苦笑するしかなかったそうである。

  玄作の能力の高いのは認めたが、南陽は他の門弟に対する手前もあり、破門せざるを得なくなったが、南陽の紹介で佐竹村(常陸太田市)磯部で村医者として開業することとなったのである。玄作は名医であり、村や近隣から多くの患者が訪れてきていたが、病人の気持などに対する配慮などはまったくなく、手遅れと思われた患者には手当てもせず、念仏を唱えるし、長くないと思われた患者の家族には葬式の準備をした方が良いという始末で、段々と患者も少なくなり、決して裕福ではなかったという。玄作の妻は水戸藩桜井与六郎の娘で、二人の間には二男二女があった。子之松(扇歌)は玄作が磯部に来てから生まれた子で末っ子であった。また、子之松が四才の時、母が亡くなった。
 子之松が七才の時、十三才の兄陽太郎と共に疱瘡(ほうそう:天然痘)に罹った。玄作は疱瘡患者の治療は知っていたが、当時の和漢の医学書に「疱瘡の病人には、青い魚類は大毒だ」と書かれていることを確かめたくなり、長男陽太郎には鰹(かつお)、子之松には鰯(いわし)を食べさせた。わが子を実験台にしたのである。だが不幸にも医学書は真実であり、まもなく二人とも高熱にうなされ、玄作が急いで解毒処置なども行ったが、毒の回りが速く、二人とも視力を失ってしまった。その後、子之松はわずかに視力を回復したのだが、しょぼ目で顔にはあばたが残った。歴史にも疱瘡(天然痘)の話は多く残っており、独眼流正宗(伊達政宗)も幼少期の疱瘡がもとで右目を失ったことは有名であり、ジェンナーが牛痘を少年(一部ではわが子)に接種して実験をしたのは玄作のわが子へのこの実験の約15年ほど前のことであった。 この、わが子二人の悲劇は玄作一家には大変ショックで、その後、玄作は以前の師である水戸の南陽の門をたたき、事件の詳細を話し、目が見えなくなった長男陽太郎の将来のことを頭を下げて頼んだのである。南陽は陽太郎の名付け親でもあり、を江戸の鍼匠へ紹介し、陽太郎も勘がよく覚えも早かったという。しかし、その二年後に流行り風邪でこの世を去ってしまったのである。

扇歌の墓(国分寺内):酒井家(2008.11.1撮影)

扇歌堂(国分寺境内)

 さて、兄が江戸へ出ると、子之松は佐竹寺の寺子屋に通うようになったが、磯部から約1里ほどの山道を通る途中ではよく甲高い大きな声で歌を唄いながら歩いたという。これは姉が唄や三味線を稽古していたためで、その音曲に強く引かれるものがあったという。ある冬の夜、子之松が遅くまで帰らずに心配して探したら、旅芸人の後について隣村(谷河原)までいってしまったのあった。子之松は寺子屋では先輩を追い抜いて2年で総代になるほどであったという。子之松が三味線や芸人にだんだんと興味がわいてきて、「いまに江戸に出て芸人になりたい」などというようになってきた。これに心配した父と意見が対立するようになったため次女の桃経は子之松を不憫に思って隠れては三味線や小唄、潮来節の稽古などを手伝っていた。やがて13歳になった子之松は父の勧めで商人となるため、多賀郡相田村の呉服問屋へ丁稚奉公に上がったのである。しかし、半年も経つとこの暮らしにはついていけず、そこを飛び出して家に戻ってきてしまった。家に戻ると今度は土地の枡屋という造り酒屋から養子に乞われ、最初は気が進まなかったが、唄もやれるということで進んで養子になった。名前を福次郎と改め、かわいがられて育てられたが、枡屋に実の子供が生まれると、疎んじられるようになり、やがて三味線一丁を手に枡屋をひそかに去った。16歳であった。それからどこを渡り歩いていたかははっきりしないが、古三味線をかかえて磯部の家に戻ってきたのは19歳の時であった。父の玄作はその2年前に死んでおり、姉の桃経も嫁に行って、叔父の玄市が医者の跡を継いでいた。父の死を始めて知ったのであった。叔父には子供はなく、福次郎に医者を継がせたいと思っていたが、福次郎は毎日、三味線をかかえて、太田の盛り場で唄っていた。たまりかねは叔父は「藪医者の子が芸人になって、江戸一番などと考えるのは、とんでもない思い上がりだ。お止めなさい」といさめたが、福次郎は即興で

 親が藪ならわたしも藪よ 藪にうぐいす鳴くわいな。

と唄ったという。そしてついに江戸に出て立派な芸人になる決心をしたのであった。

 叔父から一両ニ分の路銀をもらい、4月8日のお釈迦様の誕生日に、芸人を目指して家を後にしたのである。しかし、すぐには江戸に向かわなかった。まだ、江戸で立ち向かう技量が足りないと思っていたのである。磯部から岩城相馬街道、陸前浜街道の宿場で腕を磨くことにした。まず平潟(現北茨城市)で三味線と唄をうたってしばらく逗留したが、三味線は奥州(東北)の芸人達にかなわなかった。磐城湯本の宿で聞いた「おばこ節」(潮来節の流れをくむ)のもつ魅力に感動し、新たな唄を作りたいと山に3ヶ月ほど籠もり当時流行っていた「よしこの節」をベースにこれを越える唄を作ろうとしたのであった。

   私しゃ奥山ひと本桜 八重に咲く気は更にない。  

それから、路銀もなくなり、門付けをしながらの旅が続いた。

   白鷺が小首傾(かしょ)げて二の足踏んで やつれ姿の水鏡

   たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車

奥州路を北へ旅し、津軽三味線にも接し、それから3〜4年どこを旅していたのか知られていない。この間にやっと自分の唄が出来たのであった。ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄

 「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」

の調子が面白かったのが忘れられず、ドドイツとなり、都で一番になるとの思いから「都々一」となったという。その後、福次郎が陸羽街道を宇都宮などを流して歩いて江戸の土を踏んだのは天保二年(1831)の正月であった。江戸に出て寄席見物をする傍ら二年間江戸八百八町を流し歩いた。しかし、皆は関心を持ってはくれるが、都々一が普及するには力不足であった。やはり師匠に付く必要を感じた福次郎は、当時寄席芸人の中で、落語に音曲を取り入れ、新しい世界を切り開いていた船遊亭扇橋の門を叩いた。なんとか認められ弟子入りがかなった福次郎は、言葉訛りもあり、音曲噺家になることはあきらめ、三味線を生かして、独特の謎解き唄を考案し、修行に精を出した。これが師匠から認められるようになり師匠の扇の1字をとって芸名を「扇歌」を命名してもらった。当時江戸は十一代将軍家斉の時代で、江戸文化も華やかな時代であった。天保九年(1838)八月に都々一坊扇歌として高座に上がることが出来た。扇歌の当時の社会世相をうまく謎解き唄に取り入れて、社会やお上を風刺した都々一の新世界はたちまち観衆を魅了していった。

しかし、天保四年から続いた東北・関東地方の飢饉で、全国各地で百姓一揆が起こったりしたため、老中水野忠邦は天保十ニ年(1841)「天保の改革」に乗り出し、寄席演芸も大きく制限され、江戸に125軒あった寄席が15軒に制限されてしまった。また、扇歌などの歌舞音曲は禁止となり、高座にあがれなくなってしまった。江戸で高座に上がれなくなったので扇歌は京都、大阪へ旅立ったのである。品川、小田原、熱海、三島、宮の宿、那古屋、桑名、京都へと唄いながらの旅を続けたのである。大阪にでると扇歌の名前はここにまで届いており、「よしこの節」を凌駕する人気となっていったのであった。その間江戸の禁止も解かれて、再び演芸も盛んになってきたため、扇歌は5年後に再び江戸に戻った。庶民芸として「都々一節」は高く評価されるようになり、たいそうの売れっ子となったが、加賀の大名屋敷に招かれた時に幕府批判した唄をうたい、「上は金 下は杭なし吾妻橋」(お上は金にあかして、贅沢しているが、下々では毎日の暮らしに困り、三度の飯も食えないでいる)と、幕府の悪政を責め、救済を叫んだのであったが、これが当時の幕府の怒りをかって江戸追放の刑に処せられてしまった。扇歌46歳であった。

 江戸を追放になった扇歌は常陸府中(現在の石岡市)にいる姉桃経ところを頼って江戸を旅立ったのである。姉の桃経は小さい時に三味線の稽古をしてくれたり、幼かった子之松をかわいがってくれた最愛の姉であった。桃経は最初府中総社宮の神官のところへ嫁いだが離縁となり、香丸町の旅籠真壁屋の酒井長五郎のところに嫁に行っていた。長年の疲れもあり病に冒されながらも姉桃経も酒井長五郎も優しく扇歌に接してくれた。、時代は徐々に水戸藩の尊譲論などが巷に現れてきており、旅籠のも憂国の士などの出入りも激しくなってきていた。

  汐時やいつかと千鳥に聞けば わたしゃ立つ鳥波に聞け

  菊は栄えて葵は枯れる 西に轡(くつわ)の音がする

扇歌もいつか江戸の罪もとかれると信じていたが、やがて再び病魔がおそい、

  今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて ゆくわいな

とかすかにつぶやくように唄い、嘉永五年(1852)十月二十九日に四十九歳の生涯を閉じた。墓は千手院(現在の国分寺)にある酒井家の墓に納められた。この墓はその後、大正時代になるまで世の中に知れることはなかった。昭和六年、扇歌80周年忌を記念して国分寺の境内に「扇歌堂」が建てられたのである。

 参考文献:「都々一坊扇歌の生涯」 高橋 武子著(叢葉書房)、「都々一坊扇歌」 柳生四郎編(筑波書林)