照光寺と天狗党:
天狗党は筑波山で決起する前には、ここ府中では、水戸藩攘夷派の中心となって活躍した藤田小四郎らを中心に最初は60名ほどの人が集まっていましたが、義に燃える若者達はこれに賛同して数が増えていったとのことです。新地(鈴の宮神社横)の妓楼に幹部らは泊まっていたといわれていますが、その他多くの人達は周りの寺院などで寝泊りしたという。ここ照光寺にも、かなりの筑波勢(天狗党の前の組織名)が集まっていたと思われます。その者達は筑波山に結集する前に、はやる気持を寺の柱に刀で切りつけたと思われ、刀傷が残されました。その後、照光寺は解体され、その刀痕が残る柱の一本は、石岡市民族資料館に寄贈され、他一本は、大洗の願入寺の開基堂の柱として使用されています。 刀傷:(石岡市民族資料館蔵) この本柱の一部は明和年中建立の(雷電山西向院)照光寺旧本堂の柱であり、これに残る刀痕及び槍痕は江戸時代末期に挙兵した天狗党によるものである。 |