▼照光寺(しょうこうじ)茨城県石岡市府中二丁目4番9号

歴史の里石岡ロマン紀行


照光寺は、駅方面から市民会館へ続く細い道の右側にある。少し奥に入っており、鬱蒼とした大木に抱かれて静かなたたずまいである。浄土宗照光寺は江戸時代ここ府中を納めた府中藩主松平播磨守代々の墓地がある。照光寺は常陸大掾高幹(第14代)を開祖とし、良善上人を開山として、応安7年(1374年)に鹿の子の地に創建されたと伝えられる。約200年後、大掾氏が佐竹義宣(よしのり)に滅ぼされた時(十二世良夢上人の時代)、寺は兵火にあって焼失した。その後、佐竹義宣の叔父左衛門尉が円通寺より称往上人を十三世として招き寺の再興をはかり、鹿の子よりこの地に移した。この府中の敷地はもと府中六名家の一つ香丸氏の屋敷跡といわれている。現在の寺紋は松平家の三葉葵だが、以前は平氏の菩提寺に因んで九曜星であった。

照光寺のエノキ 幹周約3.2m

市指定文化財(昭和53年8月23日指定)

常陸府中藩主松平家墓所(史跡)
 府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖とする。
 元禄13年(1700)頼隆は、幕府から陸奥国岩瀬郡長沼など18箇村、常陸国新治郡府中など19箇村合計2万石を与えられ、「御連枝」と呼ばれる水戸徳川家の分家四藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つとなった。府中松平家は本家と同じく定府制であり、上屋敷は江戸小石川にあった。代々播磨守を世襲し、十代頼策のとき明治維新を迎えた。
 歴代藩主の墓地は小石川宗慶寺にあったが、大正15年(1926)照光寺に移した。

 

照光寺と天狗党:

天狗党は筑波山で決起する前には、ここ府中では、水戸藩攘夷派の中心となって活躍した藤田小四郎らを中心に最初は60名ほどの人が集まっていましたが、義に燃える若者達はこれに賛同して数が増えていったとのことです。新地(鈴の宮神社横)の妓楼に幹部らは泊まっていたといわれていますが、その他多くの人達は周りの寺院などで寝泊りしたという。ここ照光寺にも、かなりの筑波勢(天狗党の前の組織名)が集まっていたと思われます。その者達は筑波山に結集する前に、はやる気持を寺の柱に刀で切りつけたと思われ、刀傷が残されました。その後、照光寺は解体され、その刀痕が残る柱の一本は、石岡市民族資料館に寄贈され、他一本は、大洗の願入寺の開基堂の柱として使用されています。

刀傷:(石岡市民族資料館蔵)

この本柱の一部は明和年中建立の(雷電山西向院)照光寺旧本堂の柱であり、これに残る刀痕及び槍痕は江戸時代末期に挙兵した天狗党によるものである。

照光寺の柱に残された刀傷(石岡市民族資料館蔵)