尾花散る師付の田井(田居)(しづくのたい) 「万葉集」に登場する常陸国府の役人であった高橋虫麻呂は、筑波山を数多く歌にしました。「筑波山に登る歌」と題する歌に登場する「師付の田居」は、かすみがうら市中志筑(なかしづく)の水田地帯にあり、田圃の真ん中にその碑が建てられています。場所は旧志筑藩の藩主本堂氏の墓所である五百羅漢で有名な「長興寺」の横の道を山側に下ったところにひろがった一面の田の中にあり、石碑へ行くには田圃のあぜ道を通るしか道はありません。石碑の脇には古来からの湧き水が現在でも枯れることなく湧出しています。右の写真の正面に見える丘は風土記の丘の裏手にある宮平遺跡の発見された台地であり、紀元前よりここに人が住んでいたところです。この丘の手前は恋瀬川であり、万葉のころは「信筑川」「表川」などと呼ばれていました。歌にあるように尾花(ススキ)散る時期にまた訊ねて見たいと思います。石岡(旧府中)に残された井戸「六井の泉」の中の鈴負井(宮部地区)も川の向こう側の田の中に噴出している井戸であったことから、昔からかなり貴重な水源であったものと推察されます。また、この看板の位置からは筑波山は頭の先が少し見えるかどうかですが、田圃の半ばまでいくと左手にその雄姿を見ることができます。
ここは、昔の万葉の気分を味わえる貴重な場所であると言えますので、是非ノンビリとした時間を費やしてみては如何でしょうか?近くの志筑の町並みや羅漢の芸術作品に出会える「長興寺」などへもお越し下さい。
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(説明文)師付の田井:昭和46年8月千代田町指定史跡 万葉集(第九−1757)
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと
筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、
師付の田井に雁がねも
寒く来鳴きぬ。 新治の鳥羽の淡海も秋風に
白波立ちぬ。筑波嶺のよけくを見れば長き日(け)に、おもひ積み来し憂いはやみぬ。
草庵集(鎌倉期)
志筑嶺の、山かきけむるさみだれの、しづくの田井にさなえとるなり。 歌にある師付の田井とは、この辺一帯の水田を指したのではないかと思われる。恋瀬川(古代信筑川)に沿って、これより下流に広がる水田地帯には、一大湖水を思わせる地名(馬洗戸・津波・網代・雁群・沖)、及び条里制の一部と判断できる遺構のあるところから、この辺一帯は古代から水田地帯であったと推定できる。
尚碑のある付近は、昭和四十八年まで鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの井戸があり、日本武尊や鹿島の神にまつわる伝説のあるところで、土地の人は、昔から「しづくの田井」と呼び、しめ飾りをして守ってきたところでもある。 (平成四年一月 かすみがうら市教育委員会) |
上の写真は師付の田井につながっている石岡側(東側)をみたところであり、右手の山の上が志筑城(現在は志筑小学校)があったところです。写真中央部より右手に登ったところに長興寺がある。 |
万葉集にも詠まれているこの歌の作者は常陸国国府の役人の高橋虫麻呂であった。歌の内容を少し現代風に書き直すと下記のようなものである。
(草枕)旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って見ると、芒(ススキ)が散る師付の田に、雁も寒々と飛んで来て鳴いている新治の鳥羽の湖も、秋風に白波が立っている。
筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んだことである。
説明文にある日本武尊(ヤマトタケル)や鹿島の神にまつわる伝説とは「日本武尊が水飲みの容器を井戸に落とした」「鹿島の神が陣を張って炊事をしたところ」などという言い伝えが残されています。また、ここ志筑や旧国府である石岡市から筑波山をながめると、男体山・女体山が並んだ美しい姿がとても印象的であり、昔の人もここからの筑波山を神秘的な山と見ていたのではないでしょうか。
また歌にある「新治の鳥羽の淡海」とは現在の市町村合併前の新治郡のあたりではなく、筑西市(旧協和町)に新治郡衙あとがあり、小貝川の流域が大きな湖で鳥羽の江(騰波の江)と呼ばれていたのです。したがって高橋虫麻呂は旧国府の石岡側より筑波山へ登って東側に師付の田が広がり、西側に鳥羽の淡海が見渡せたので、この景色に感動したのです。
また、万葉集(第九−1758)には上の歌の反歌として次の歌が載っています。
筑波嶺の裾廻(すそみ)の田居に秋田刈る 妹(いも)がり遣らむ 黄金(もみぢ)手折(たお)らな
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