▼常陸国総社宮▼ 

歴史の里石岡ロマン紀行


 関東三大祭りの一つともいわれる「石岡のお祭り」は毎年9月に3日間町をあげて開かれるが、この祭りはここ「常陸国総社宮」の例大祭である。江戸時代の武家祭りが民衆化したものであり、毎年40数台の山車が町中を練り歩きます。一般に総社という神社は、諸国の国府所在地に多くあり、それぞれの国内の一宮、二宮、三宮などの神社を合わせて祭り、国司がそれらすべての神社を参拝するのに代えたとする説が有力とされる。(府中古事記には総社明神は国内の明神大社七社の神鹿島大神、静神社、吉田神社、大洗磯前社、酒列磯前社、稲田神社、筑波社の神々を合祀するとあるが定かではない)ここ常陸総社宮は、国家鎮護の社として、始めに常陸・武蔵・甲斐・駿河・長門・対馬の六国府が選ばれ、その中から第一創建あるべしとの聖武天皇の勅命(天平年間729年〜749年)によって建てられたものとのこと。創建年代不詳なれども、平安時代の末ごろには普く全国の国府の地に鎮座せられていた。

常陸國総社宮の祭神には、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「大国主尊(おおくにぬしのみこと)」「素盞鳴尊(すさのおのみこと)」「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」「大宮比売尊(おおみやひめのみこと)」「布留大神(ふるのおおかみ)」の六柱が祀られている。  

総社宮の参道
 

 隋神門(総社宮で残っている建造物では一番古い)

石岡市指定有形文化財「隋身像(左大臣・右大臣)」1680年の作とされ、作者名も判明している。大きさは左大臣86.0cm、右大臣84.5cmの寄木作りである。

境内には、本殿、拝殿、神楽殿、参集殿、隋神門、手水舎、神庫、社務所が配され、稲荷神社、厳島神社、松尾神社、愛染神社、愛宕神社、八坂神社、星之宮など十二社の末社が、常陸國総社宮内に現在合祀されている

七五三のお祝いの祈願が行われていました。(2006.10.末 撮影)

拝殿入口の駒獅子。拝殿手前部分は火災で立て直したもの。

日本武尊(やまとたけるのみこと)腰掛石

景行天皇即位40年、日本武尊は東国を平定し府中の地に立ち寄られた。蓑幡江(みのはたのいりうみ:霞ヶ浦)へ注ぐ表川(恋瀬川)は水は豊かであった。府中も杜を見て尊はその岸に舟を向けさせた。その時激しい風雨に見舞われ、媛を失った速水の海を思い出したが、すぐに腰の剣をさっと払うと不思議にも風雨が収まり、無事に総社の岸に着いたのである。小高い丘の一隅にあった石に腰掛、四方に目をやった。筑波の山の色とりどりの美しさに心奪われていた。尊は杜のあたりで仮泊され、翌朝西へ(にいはり山)ご発足された。

昔より湧き水がある道で「おみたらし(御手洗)道」が神社裏手にひっそりと隠れていた。昔はその横の拝殿へ登る道(階段)のわき道でもあった。

府中の湧き水は府中六井の泉の他に、この総社おみたらしも貴重な湧き水であった。総社をここに建てたのはこの湧き水があったからとも言われています。鹿島神宮には「御手洗(おみたらし)池」があり、昔この水で身を清めてお参りをしたといわれています。

 

「神水瀧」の水で身を清めます。今はわずかしか水は流れておりません。

総社宮拝殿に上る旧道。昔は宮下町側から登るメインの道であったが、今はほとんど登る人はいない。

追儺祭の度ごとに拝殿内と神楽殿において「四方祓」がおこなわれます。「四方祓」を奉納するのは、夢想神伝流池田忠男八段をはじめ、市内青柳道場門下生の皆さんとのことです。(2007.2.3撮影)

 

節分の豆まき(2007.2.3撮影)

年男による豆まきは午前10時から夕方6時まで1時間ごとに行われる。地元の子供たちがダンボーる箱を抱えて豆ならぬお菓子類をもらうのに必死である。