▼鈴ノ宮稲荷神社▼ 石岡市国府2

<歴史の里石岡ロマン紀行>


 駅前の八間道路より左(南)に一つ入った通り国府2丁目にある。車は中町通りの関東銀行脇側から駅方向への一方通行である。街中の普通の神社(お稲荷さん)という趣であるが、幕末の天狗等が最初に決起してここから出立したことで知られる神社である。

元治元年(1864年)3月27日、藤田小四郎ら天狗党総勢63名は、ここ鈴ノ宮稲荷神社の境内に集合し、成功を祈願。ときの声をあげ、筑波山に向けて出立したという。(『筑波義挙発祥の地』と記されている)

 

新地八軒(遊郭)/紀州屋があった場所

神社の隣りの空き地(現在は駐車場)昔新地八軒(紀州屋、金枡屋など。詳細は石岡市民族資料館に展示あり)といわれた遊郭があった。天狗党の藤田小四郎や竹内百太郎たちはこの遊郭を定宿としていた。特にその中の紀州屋の女将「いく]は天狗党に「おふくろ」と慕われていたという。天狗党は幕末の行き詰まりから水戸藩内部の抗争に端を発しているが、民家を焼き討ちした過激派ばかりではなく、尊攘運動が時代変革を必要としていた表れでもあった。紀州屋いくの墓は本浄寺にある。天狗党事件と石岡地方の民衆との関係は上州勢が加わってから変わっていくのである。この上州勢は筑波山にとどまっていたが、壬生・宇都宮藩などによる幕府側の追討勢力のため、筑波山を下山し、府中国分寺などに対陣していた。一方柿岡などの農民が波付岩近くでこれに対抗するために集結した。これを上州勢が焼討ちしたのである。しかし上州勢は幕府軍に破れ、天狗党に協力した石岡地方の家が幕府軍により打ち壊された。この時の戦で府中の町では約160軒が焼失してしまった。最終的には幕府軍により多くの天狗狩りが行なわれ杉並・谷向などで処刑が行なわれたという。

天狗党(筑波勢)の府中市内の寺などに宿泊していた。主な宿泊先は:

・国分寺、東耀寺、本浄寺、照光寺、華園寺、新地八軒などがある。

 

 

 

 大イチョウ

 樹齢は不明であるが、幹周長約4.4mの大イチョウは神社の裏に残されている。市街地の真ん中の神社で、周りは宅地となっており、狭いところにやっとのこと残されている。しかしその上部の本来あるべき枝葉はほとんど無くなっている。

「鈴の宮」名前の由来

むかし、駅制で官人が往来する時に駅使が鈴をならしました。この制度が廃止された後その鈴が奉納されたため、この神社は鈴の宮とよばれるようになったそうです。(広報 いしおか 2008年8月1日号)