伝 説 「弟橘姫」
倭武尊(やまとたけるのみこと)が、東国征伐に船で相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡るときでした。海が荒れ狂い、今にも船が沈みそうになりました。女の人が船に乗っているため、海の神の怒りによるものと、弟橘姫は自らいけにえとなって、あらしの海に飛び込みました。すると、荒れ狂っていた海が静かになり、倭武尊たちは、無事たどりつくことができました。
それから何日かのち、弟橘姫のさしていた笄(こうがい)が、霞ヶ浦に流され岸辺に打ち上げられました。流れついた笄を守るかのように鳥が群がっていたり、その笄は羽を生やして飛んだともいわれています。笄の飛んで行ったところを笄崎と名付け、神社を建てて笄を納め、弟橘姫の霊を祀ったということです。
羽生や立花(橘)という地名は、こうして生まれたといわれています。
平成7年12月 玉造町教育委員会 (像制作 宮路久子)
さて、横須賀の走水から千葉の富津岬に古道東海道は船で渡っていました。このお話に出てくるように弟橘姫が入水してヤマトタケルが無事に東国治める活躍をするというヤマト民族の側からみた日本の歴史神話ですが、日本を大和朝廷が治めるためにいろいろと話を作ったものとおもわれます。横須賀や千葉県にはこのお話が基となった地名が多く残されており、所縁の神社も多くあります。しかし、東京湾で沈んだ笄(こうがい:髪を束ねるカンザシのひとつ)が霞ヶ浦に流れ着いて空を飛んだという話には少し無理がありますね。になるのでしょうか。先日かすみがうら市の神立を通っていたら「笄崎」というバス停がありました。ここは江後田(えごた)へ入る入り口であり、昔は鎌倉海道があったという。鎌倉時代の頃まではは霞ヶ浦も船で渡っていたのです。場所は美浦村の牛渡から対岸の牛込まで牛が渡ったのでこの名前がついたようです。(参考まで)
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