▼橘郷造神社(たちばなごうぞうじんじゃ)▼ 茨城県行方市羽生1390

歴史の里石岡ロマン紀行(小美玉・行方編)>


 霞ヶ浦に沿った355号線の行方市の羽生と7号線小美玉市(旧小川町)橘を結ぶ県道360号線沿いにある。あまり車は多くはないが木々がうっそうとしているのでその存在がわかる。この橘郷造神社は入り口にヤマトタケル(日本武尊)の神話に出てくる「弟橘姫」の像を奉っている。また万葉集や吾妻鏡に「橘郷」としてその場所がでており、この地は鹿島神宮の領地となったことが伝わっている(羽生、与沢、倉数など)。従って昔の神話にまつわる話と結びついたのかもしれない。

神社へは参拝の入り口に弟橘姫の像が立っているが、ここから長い参道が続く。参道の両脇は杉の古木が並んでいて少し薄暗い。

 ここ橘郷造神社には市の無形文化財に指定されている「羽生ばやし」が伝わっている。地元保存会(1970年結成)と羽生小学校の生徒もさんかして7月に羽生祇園祭で披露されているという。

 またこの近くにはヤマトタケルにまつわる伝説の地も残されています。

・「玉清の井」・・・常陸風土記によれば日本武尊が東方征討の途中、この地を通り、清泉の湧き出るのを見て、これをすくおうとして、誤って曲玉を水中に落としてしまった。

 立花地区は「常陸飛鳥」の別称もあり、大和地方とも呼ばれるという。奈良の春日大社から勧請した春日神社もあり、古代を探るためにはもう少し探訪してみたい。



 

伝 説 「弟橘姫」

 倭武尊(やまとたけるのみこと)が、東国征伐に船で相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡るときでした。海が荒れ狂い、今にも船が沈みそうになりました。女の人が船に乗っているため、海の神の怒りによるものと、弟橘姫は自らいけにえとなって、あらしの海に飛び込みました。すると、荒れ狂っていた海が静かになり、倭武尊たちは、無事たどりつくことができました。

 それから何日かのち、弟橘姫のさしていた笄(こうがい)が、霞ヶ浦に流され岸辺に打ち上げられました。流れついた笄を守るかのように鳥が群がっていたり、その笄は羽を生やして飛んだともいわれています。笄の飛んで行ったところを笄崎と名付け、神社を建てて笄を納め、弟橘姫の霊を祀ったということです。

 羽生や立花(橘)という地名は、こうして生まれたといわれています。

 平成7年12月 玉造町教育委員会 (像制作 宮路久子)

 

さて、横須賀の走水から千葉の富津岬に古道東海道は船で渡っていました。このお話に出てくるように弟橘姫が入水してヤマトタケルが無事に東国治める活躍をするというヤマト民族の側からみた日本の歴史神話ですが、日本を大和朝廷が治めるためにいろいろと話を作ったものとおもわれます。横須賀や千葉県にはこのお話が基となった地名が多く残されており、所縁の神社も多くあります。しかし、東京湾で沈んだ笄(こうがい:髪を束ねるカンザシのひとつ)が霞ヶ浦に流れ着いて空を飛んだという話には少し無理がありますね。になるのでしょうか。先日かすみがうら市の神立を通っていたら「笄崎」というバス停がありました。ここは江後田(えごた)へ入る入り口であり、昔は鎌倉海道があったという。鎌倉時代の頃まではは霞ヶ浦も船で渡っていたのです。場所は美浦村の牛渡から対岸の牛込まで牛が渡ったのでこの名前がついたようです。(参考まで)

橘郷造神社の道を少し羽生(行方)の方に進むと通り沿い(公民館?)の横にこの万葉歌碑が立っている。

占部広方(うらべひろかた) 万葉歌碑 (所在地:羽生東)

 万葉集巻二十に

 「橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも」 

この一首、助丁(すけのよぼろ)占部広方とあり「二月十四日(天平勝宝七年(753)に、常陸国の部領防人使・・・・が進る(たてまつる)歌の数十七主とある。即ち、この時難波についた防人たちが、大伴家持お要請で、各国の部領地使に提出した歌で、その中、常陸国からは、この広方の歌と、若舎人部広足(わかとねりべのひろたり)の歌二首を入れて、十首が載っている。常陸国風土記には、また行方郡(こほり)と香島郡とに、橘の木が生い茂っているとあり、また行方郡からは筑波山がよく望まれると書いてある。この地は古く橘の郷(さと)といい、広方は、ここから防人(さきもり)に召され、筑波山を恋い、嬥歌(かがい)のことなどを偲んで歌ったのであろう。助丁とは国造丁(くにのみやっこのよぼろ)に次ぐ階級であった。

昭和59年 玉造町教育委員会