山県大弐の墓(県指定文化財)
指定年月日:昭和10年11月16日
山県大弐は甲斐(山梨県)に生まれ、医を業としたが、神道・儒教・仏教の教養深く、宝暦年間、江戸にでて塾を開き、国典・兵法を講じ、大義名分論を唱えた。その著書「柳子新論」で尊王を説いて幕府を批判したため、明和四年(1767年)43歳で処刑され、小塚原の刑場にさらされた。その時、山県の門弟であった根小屋出身の園部文之進外2名が見るに忍びず、夜中ひそかに首を奪って帰郷し、自宅の墓地に埋めてそれを家人に告げ立ち去ったといわれる。やがて明治になってからその遺骨はここ泰寧寺墓地に改葬され、贈位の恩典にも浴した。法名は卓栄良雄居士と過去帳に記されている。
石岡市教育委員会
山県大弐は、江戸時代の勤皇学者である。享保10年(1725)甲斐国に生まれ、27才の時、江戸に出て儒学と兵学を講じ「柳子新論」を表わして、暗に幕府の政治を批判した。当時は封建の世、幕府の批判はいっさい許されない時代であった。明和4年(1767)ついに幕府に捕らえられて処刑された。時に43才、これが歴史上有名な明和事件である。大弐の門人は全国に多く三千人にも及んだといわれているが、その一人、根小屋(八郷町)出身の園部文之進らがひそかに師の首をはこび、この泰寧寺境内に葬ったものである。
八郷町
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