阿波から和紙製法が伝えられた「ふくろうの神社」 古代の日本の歴史を追いかけていくとここを紹介したくなりました。「鷲子」は「とりのこ」と読みます。浅草の酉の市(トリノイチ)が行われる「鷲神社」は「オオトリ」です。共に忌部一族の始祖とされる天太玉命の系列を汲む阿波(徳島)忌部氏の祖とされる天日鷲命(あめのひわしのみこと)が祭られています。これは神話では「天照大御神が岩戸に隠れてしまわれた時に、岩戸の前で舞の演奏を弦楽器で演じますが、この時に何処からともなくとんできた鷲が弦の先にとまります。これを見た八百万の神々は鷲の一字を付け加えさせたと言われています。この天太玉命の孫、天富命(あめのとみのみこと)と天日鷲命の孫、由布津主命(ゆうふつぬしのみこと)が紀の国(和歌山県)、総の国(千葉県)を開拓して、麻の栽培や紙すきの技術を伝えていったといわれています。ここの神社の開祖は宝珠上人で、馬頭の人のようです。大同2年(807年)平城天皇時代で平安時代初期であり、この時期にこの地方でも多くの神社が建立されています。徳一大師(会津の高僧徳一の紹介ビデオはこちらを参考)が大同元年(806)陸奥会津の石梯(いあわはし)山に登り、814年頃会津の磐梯町に慧日寺を開いたとされており、その後常陸にやって来て筑波山に中禅寺を建てたとされています。しかし徳一の建立とされる岩間の愛宕神社は大同元年(806年)の建立であり、石岡吉生の峰寺山西光院は大同2年(807年)の建立とされています。詳しい記録はほとんどなく、この時代に徳一(法相宗)と最澄(天台宗)との論争・空海(弘法大師、真言宗)の交流などとても興味深い資料から推察するしかありません。これらは会津の仏教思想や常陸の仏教思想などの原点のように思われます。空海(弘法大師)が中国から修行して日本に戻ったのは大同元年(806)であり、山林での修行を重視し、修行の場として高野山を開いたのも、徳一の影響もあったかも知れません。これも阿波との関係も大変興味深いものがあります。徳一の法相宗もその後真言宗に変ってしまったところが多いようです。
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鷲子山上神社(とりこのさんしょうじんじゃ)は、栃木県(馬頭町)と茨城県(常陸大宮市)の県境に位置し、標高470メートルの山頂にあります。
神社の創建は、大同2年(807)。大蔵坊宝珠上人が諸国遍歴中に四国の阿波国(徳島県)に立ち寄り、製紙業が盛んであることを知り、紙漉きの技術と共に守護神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を勧請し、鷲子山に社殿を建立したといわれます。
その後、大巳貴命(国土経営・健康開運の神)や、小彦名命(産業・医薬・酒造の神)がまつられました。鎌倉時代末期になると、当地方は下野国中央部を勢力圏とした宇都宮氏支族の武茂氏が統治していました。神社はかつて朝日嶽と呼ばれる地にありましたが、火災で焼失し、天文21年(1552)現在地に再建したと伝えられています。
現在は、栃木県・茨城県の指定文化財となっています。(神社HPより)
左写真の大鳥居は鷲子山上神社鎮座1200年記念事業として、平成19年に再建されました。
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鷲子山の山頂にありますが、上まで車で登る事が出来ます。駐車場から神社まではすぐです。神社の入口には食事所や土産物(フクロウのお守り、ストラップなど)が多数あります。鷲子山は、日本の自然百選にも選ばれている自然豊かな霊山です |
本宮神社:
日本一の大フクロウ(不苦労)像と不苦労御柱があります。金色の大フクロウ像はあまり山上の由緒ある神社には似合わない。
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楼門(安養閣)1815年
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神社由来:天日鷲命(アメノヒワシノミコト)を祀る
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楼門(安養閣):唐破風をつけた変わったデザインの楼門である。本殿と同じく天文21年(1552年)の建立である。 源頼朝、徳川家康、水戸光圀などその時代の権力者の保護を得て、経済的にも恵まれていたようである。楼門(随神門・安養閣)と言う 文化12年(1815)年建立。
「安養閣」の文字は、権大納言重嗣の筆による。
門には、右大臣、左大臣、仁王様(裏側)の像が坐する。
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水掛けフクロウ(不苦労):フクロウの石像に水をかけ、苦労を水に流します。また、フクロウの石像を撫ぜると、家庭円満・身体健全・金運成就など多くの幸せが舞い込んで来ると謂われています。石段の手前に作られています。縁起物ですから水を掛けフクロウ像をなでてから参拝しましょう。
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楼門の左大臣
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楼門の左大臣
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左写真:ふくろうの石段・・・社務所より拝殿前まで96段(苦労)ある。
往復不苦労(2回苦労.296)といい、幸運を招く石段といわれています。わき道もありますので、片道では苦労で終わってしまいますので注意しましょう。毎月29日に参拝するとより御利益があるようです。
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磨拝殿と本殿:天日鷲命を祭る本殿は標高460メートルの鷲子山の山頂にある。拝殿と本殿は天文21年(1552年)の建立で、柱、組物の彫刻は雄大なものであった。本殿の彫刻は、日光・東照宮の流れをくむ彫刻士の作と伝えられ、両県の文化財に指定されている。
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本殿は、天明8年(1788)に再建された。三間社流造の銅板葦で千木・堅魚木を配し、向拝を付している。典型的な江戸中期の作とされ、あらゆる個所に彫刻・彩色が施されています。本殿柱や、頭貫の彫刻構成と装飾の豊かさは、類例をみない
奇抜な手法であり、社殿の彫刻の流れを知る上で貴重な遺構です。(神社HPより)
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本殿玉垣(修理されきれいになっている)裏には「ふくろう」の置物が並ぶように置かれている。この神社は何処に行っても梟がいっぱい置かれている。
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千年杉(御神木):樹齢千年という大杉(直径:2m20cm
周囲:約7m)。
その他、樹齢600年という「カヤ」の大木もある。境内は南限北限の動植物が多く、自然環境保全地域に指定されている。(カヤの木は北限とされる)
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お祭り情報 例大祭(夜祭り):毎年11月第三土曜日午後5時半〜7時頃。昼間(土日)にも縁日など行事がある。かつては旧暦10月17日の子の刻(午前0時)、丑の刻(午前2時)、寅の刻(午前4時)の3回にわたり行われていましたが、現在は日没から3回の神事が行われます。夜祭りは、本宮祭・本殿祭・三本杉祭の3つの祭りからなり、古い歴史を感じさせてくれます。神事は1000年杉の下にはアラゴモ(荒く織ったむしろ)に座って行い、モミジのライトアップの下、味のない黒豆を肴に一夜造りの甘酒を飲み交わす古式に則ったものです。 鷲子祇園祭:ほぼ4年に1回7月下旬に行われます。山車や屋台が山あいをねり歩く風情豊かなお祭りです。
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鷲ノ子和紙について
阿波から紙すきの技術を伝えられたこの美和地区は手漉き和紙の里として発展してきた。特に江戸時代には水戸藩指定紙漉き場となり、徳川光圀(水戸黄門)は家来の風車の弥七(のモデルになったともいわれる?松之草村小八兵衛。現地には本当に墓まで観光地として宣伝している)の進言により城内の侍女たちを寒中に見学に遣わして紙の尊さを知らしめたといわれている。また、明治時代には選挙の投票用紙に指定されて活況を呈したという。国道293号線は「紙街道」と呼ばれていたという。
鳥の子紙、トリノコ紙と一般に日本画や襖などの高級紙を読んでいますが、雁皮を主原料とした良質の和紙で、卵色をしているところから鳥の子と呼ばれたと解されていますが、本当は鷲子紙の呼び名から伝わったものではないでしょうか。(資料はありませんが・・・)
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