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<歴史の里石岡ロマン紀行>

▼古東海道の終点の都市 : 石岡


古道7街道について 

 東海道といえば江戸時代に整備された江戸と京都を結ぶ東海道五十三次が有名であるが、そのもっとずっと昔、国造りがおこなわれた律令制時代(今から1300年以前)から主要国をを結ぶ道は作られていた。古道と呼ばれる道である。東海道は伊賀国(国府:今の伊賀上野市坂ノ下国町)より常陸国(国府:今の茨城県石岡市)まで続いていた。当時の大阪・京都などの地帯は五畿内(山城、摂津、河内、和泉、大和)と呼ばれ、ここから全国に七道が五畿と63カ国を結んでいた。(東北と北海道はまだ入っていなかった)

東山道:近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、出羽、陸奥

東海道:伊賀、志摩、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸

北陸道:若狭、越前、能登、加賀、越中、越後、佐渡

山陰道:丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐

山陽道:播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門

南海道:紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐

西街道:豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隈、薩摩、壱岐、対馬

古東海道は東京湾を舟で渡った

 東京湾アクアラインが開通したとき旧東海道の再現との話題があったが、昔の東海道は横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ舟で渡っていたという。神奈川側では鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀川へ歩いた。当時江戸はまだそれ程開発されていない地域であり、現在の東海道からはかなりズレていた。千葉県に入ると上総(かずさ)国=国府は市原-下総(しもうさ)国=国府は市川-常陸(ひたち)国=国府は府中(現石岡)と続いていた。江戸を中心に考えると下総の方が東京に近いが、当時の東海道で考えれば、五畿内(関西)に近い上総が上手である。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征(2世紀頃?)

 古事記と日本書紀に書かれた神話ですが、西国を平定した日本武尊に景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じます。それは死を意味するほど過酷な任務でした。日本武尊(ヤマトタケル)は叔母である伊勢神宮を創建したとされる倭姫命(やまとひめのみこと)より、伊勢神宮より草薙剣と袋とを与える。相模の国で日本武尊はだまされて野中で火責めにあってしまう。これを草薙の剣でまわりの草を刈り払い、袋に入っていた火打石で逆に火をつけて何を逃れる。この場所が焼津(ヤイヅ)になった。その後、現横須賀近くの 走水 ( はしりみづ ) の海辺の地にしばらく留まった。このときの場所が、今の御所ヶ崎の地である。船出にあたり、尊は歓待してくれた村人に冠を与へた。村人はその冠を石櫃に納めて土中に埋め、社を建ててまつった。これが走水神社の始りとされる。

 走水は流れが速く、房総へ渡るのにかなりの難所(現在の浦賀水道)であった。尊の船が沖へ出ると、海神の怒りに触れて突然激しい暴風雨となり、海は荒れ、高波が船を襲った。后の 弟橘媛命( おとたちばなひめ ) は、 海神 荒御魂 ( あらみたま ) を鎮めようと、波の上に、菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重をしいて、そこに船から飛び降りた。そのとき火攻めに遭った時の夫の優しさを回想する歌を詠んだ。

 ○さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて ( ) ひし君はも    弟橘媛

 (相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ)

 すると、うそのように波風は静まり、船は水の上を走るやうに上総国に到着したという。以来、「水走る走水」というようになった。数日後、弟橘姫の櫛が海辺に流れついたので、村人はこれを拾って社に納め、橘神社としてまつった。橘神社は明治のころ走水神社に合祀された。
 関東の平定を終へて帰途についた日本武尊は、箱根の碓氷の坂で、東の走水の海の方向を臨んで、「吾妻はや」と言はれたという。これで東国を「あずま」と呼ぶようになった。

上総に渡った日本武尊が、橘の木を媛の墓標としたのが由来で橘樹神社(千葉県茂原市本納)ができた。ここから北の制定にどこまで行ったかはいくつかの説があると同時に、各地に日本武尊が来たという伝説のものが残っている。古事記と日本書紀でも少し違っている。また常陸風土記にも日本武尊と弟橘媛がでてくるようである。また石岡の総社には「日本武尊の腰掛石」がある。

房総に渡った後の古道東海道ルートについて

 走水を出た船が上総(かずさ)のどこについたのか範囲が広く良く分かっていない。地図で見る限りは富津岬が一番近い(約6km)ように思われますが、木更津に近いところ辺りに着くのがルートであったのではないでしょうか。上総に上陸した後は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上する。五井駅の近くで右折し、市原市役所の近くが旧国府(上総国分寺がある)である。国道16号を更に北上すると、国道14号にかわる。このまま海沿いに進むと下総(しもうさ)国府である市川市に入る。市川市外より松戸方向に北上する県道があり、少し行ったところに下総国府である国府台である。この道をそのまま北上すると野菊の墓、寅さんや演歌で有名になった「矢切の渡し」のある矢切を通り(矢切の渡しは江戸川を柴又へ渡る渡しである)松戸へ出る。ここからは6号国道を北東し、常陸国国府石岡へ出る。江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海であった。利根川に相当する川として常陸川(小貝川と鬼怒川の合流)があったが、この川をどのように渡ったかは良く分からないが、あまり流れが速くなかったのではないだろうか。

さて、千葉の房総半島には下総、上総ともう一つ安房(あわ)国がある。ここは養老2年(718年)に上総の国から分割されてできた。国府は館山市国分(三芳村府中?)である。安房の言葉の由来は忌部氏(いんべし)が四国の阿波(徳島県)の民を連れてきて、阿波の神を祀ったことによるとされる。南総里見八犬伝で有名となった。

さて、古道東海道の終点、常陸国府中(現石岡市)に都より国司、常陸介が赴任すると、国府の浜(現高浜)より舟で霞ヶ浦を渡り、鹿島神宮のお参りに行くのが習わしであった。しかし、波が荒い日は、浜に青葦で仮神社をたてお参りした。こらが始まりとなり、青屋神社が建てられ、高浜神社が建てられた。

伊賀国から常陸国までのルートを地図で追いかけて見ました。

伊賀(いが)国

 国府は現在の伊賀市上野(旧伊賀上野市)です。藤堂高虎の城を再現して(実際にはこのような天守閣はなかったようだが?)天守閣が観光用に造られた上野公園(芭蕉の生家も近くにある)から、国道25号線を北東方向に約3km程進むと伊賀一ノ宮ICへの分岐の手前に府中小、府中中の学校が見える。ここの近くが旧国府である。伊賀国分寺跡は南に4km程いったところにある(ほとんど何も残っていないようで、石碑のみがたっているだけとのこと)。国道より左側の服部川をはさんで西条・東条の地名がみえる。このあたりが守護所であるが、府中は「こふ」と読む(学校名は「ふちゅう」)。国府は関西本線の佐那具(さなぐ)駅近く、坂之下国町である。一ノ宮は敢國神社(伊賀一ノ宮IC近く)である。

伊勢(いせ)国

 国府は現在の三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷です。鈴鹿市国府(こう)町という地名が鈴鹿サーキットの西側にあり、長く国府と思われてきた。しかし、平成5年に国府跡が広瀬町長者屋敷より発見され、訂正された。広瀬町は国道1号の北側である。伊賀国府からは国道25号線を東へ行くと国道1号線にでる。そのまま1号線を四日市方面に進み、亀山市を過ぎ、関西本線を渡ると、汲川原町交差点へ出る。ここを左に行くと広瀬町へ、右に行くと国府へ行く。また総社は長い間、国府町にある三宅神社とされてきたが、稲生の伊奈富神社が総社とされる。一ノ宮は山本町の椿大神社または一ノ宮町の都波岐神社といわれ、伊勢神宮は一ノ宮ではない。また国分寺跡は少し四日市寄りの鈴鹿市国分町にある。ここに、平成10年に鈴鹿市考古博物館が建設され、公園も整備された。

志摩(しま)国

 国府は三重県阿児町です。志摩国は東海道の枝道ですが、国道1号を四日市日方面に進むと国道23号線(伊勢街道)へでる。東海道は左の尾張へ向かうのであるが、まずは右へ海沿いを南下する。伊勢から国道167号に入り、鵜方駅から東に進み、国府白浜の浜辺にでる。この近くに国分寺がある。総社は国府神社で海岸沿い南方近くにある。一ノ宮は鳥羽市安楽島の伊射波(いさわ)神社と志摩市磯部町の伊雑宮(いざわのみや)の二社ある。

尾張(おわり)国

 国府は愛知県稲沢市です。名鉄名古屋本線の国府宮(こうのみや)駅があり、この近くと思われますが、国衙跡が見つかっていません。一ノ宮は一宮市真清田の真清田(ますみだ)神社です。伊勢国、志摩国からは四日市より国道1号線を三重県より揖斐川・長良川を渡って愛知県に入る。蟹江町で西尾張中央道を北上し、稲沢市役所のところを右折して、名鉄名古屋本線の国府宮(こうのみや)駅にでます。駅の前が尾張総社の国府宮神社です。2月に行われる「はだか祭り」で有名です。国分寺は稲沢市矢合町椎ノ木に置かれたが、廃寺となって塔跡と金堂跡が発見されたが、経緯はわかっていない。尾張国には草薙剣を祀っている有名な「熱田神宮」があるが、伊勢神宮と同じく一ノ宮ではない。国府宮から北上すると尾張一ノ宮へ、国道22号線を南下すると、熱田神宮のところで国道1号線に出る。

三河(みかわ)国

 国府は愛知県豊川市です。国道1号線を名古屋より名鉄名古屋線に沿って進むと、豊橋の少し手前に「国府(こう)」駅があります。国府跡はここから豊川よりに少しいった白鳥町上郷中にある三河国総社の東隣りの曹源寺の境内から発掘された。国府(こう)より1号線より少しはなれて姫街道(国道362号)を東へ進むと八幡町に国分寺、国分尼寺跡がある。姫街道をそのまま進むと、豊川稲荷にでる。ここより国道151号線を飯田線に沿って少し北上したところに尾張一ノ宮である砥鹿(とが)神社がある。

遠江(とおとうみ)国

 国府は静岡県磐田市です。昔の東海道は姫街道から浜名湖を船で渡ったのであろうか、それとも陸路を国道257号線を南下したのかもしれない。いずれにしても浜松で国道1号線にでる。遠江国府(磐田市)へはそのまま国道1号線を東に進む。遠江は浜名湖の湖をさす言葉とされる。国府のあった場所は中世では「見附」と呼ばれていた。東海道線の磐田駅の北側で1号国道近くである。市役所の北側に国分寺跡があり、国分尼寺はすぐその北側に隣接されて建っていた跡が見つかっている。総社は近くにある淡海国玉神社(旧見附学校)である。一ノ宮は磐田駅より10kmほど北の天竜浜名湖鉄道遠江一宮駅北の周智郡森町にある小国神社と掛川市の事任八幡宮の二説がある。

駿河(するが)国

 国府は静岡市です。駿府の国府は駿河城のすぐ北の静岡高校付近と言われていますが、遺構は発見されていません。また国分寺、国分尼寺も特定できていません。総社は浅間(せんげん)神社(神部神社)であり、一ノ宮は富士山の麓の富士宮市大宮町にある浅間(あさま)神社(富士山本宮浅間大社)である。遠江国からは国道1号線をそのまま東へ進むと大井川を渡り、焼津へ出る。焼津の名前は日本武尊(やまとたけるのみこと)の火攻めにあった時に、自分の周りの草を刈って、逆に周りに火をつけて難を逃れた神話に由来する。そのまま1号国道を進み、安倍川を渡ると静岡市である。駿河城は県庁の隣りであり、駿府公園となっている。浅間(せんげん)神社は城の北西500m位のところにあり、賤機山古墳もあり、海側には有名な「登呂遺跡」がある。

駿河府中(駿府)が静岡に名前を変えたのは明治2年の版籍奉還で全国の府中の多くの名前が変わりました。、浅間神社の裏手の「賤機山(しずはたやま)」から「賤ヶ丘」が予定されていたが「賤」は「賤しい(いやしい)」に通じることから「静」の文字を使い「静岡」となったとのこと。駿河は戦国時代は今川義元の地盤であり、後期には徳川家康が江戸に移るまで地盤として栄えてきました。駿河の文字は元々「珠流河」と書かれていたが、7世紀になって「駿河」に変わった。

伊豆(いず)国

 国府は三島市です。680年に駿河国から分割して設けられた。一ノ宮は大宮町の三嶋大社であり、総社を兼ねていたのではないかと言われています。またこの近くに国府があったと推定されているが、遺構は見つかっていません。駿河国府(静岡)からは国道1号を海沿いに進みます。富士川を越えて沼津、三島へと進みます。三島駅のすぐ近く、伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の近くに国分寺塔跡があり、三嶋大社もその東側にあります。少し南側に、2005年の町村合併で伊豆長岡・韮山・大仁町が合併して伊豆の国市が誕生しましたが、旧国府のあったのは三島市です。しかしこちらも源頼朝が姪ヶ小島より挙兵したことや北条氏の屋敷や、北条早雲の韮山城などがあり、鎌倉時代からの伊豆国と言えるでしょう。

相模(さがみ)国

 国府は海老名市です。伊豆国府(三島)からは国道1号を進むと、箱根の山越えである。山越えが終わると小田原の海に出る。ここから海沿いに進んで平塚から国道129号線を北上すると厚木で国道246号に出る。厚木の隣りが海老名である。海老名駅の東側に国分寺跡がある(海老名中央公園に国分寺の七重の塔が1/3の大きさで復元された)。このため国府は海老名市であるとされるが、国府が時代で変わって、4箇所あるとも言われている。海老名市・伊勢原市・平塚市・大磯町で、それぞれ国府などの地名が残っているようである。一之宮は寒川神社である。場所は平塚より海老名へ向かう途中にある。近くには鎌倉の鶴岡八幡宮があるが、鎌倉時代に創建されたものである。総社は大磯町国府の六所神社である。総社の近くの神揃山にて5月に国府祭(こうのまち)が行われます。一之宮〜四之宮、及び平塚八幡の神様が集まるのだとのこと。禅問答の神事で有名。

甲斐(かい)国

 国府は笛吹市春日居町または三坂町と思われます。甲府は甲斐国府より名前が付いていますが、正確には甲府より少し勝沼よりの一宮御坂ICの近くに国分寺跡があり、国府の地名も残っています。甲斐国は東海道というには少し離れていますが、箱根の山を超えて小田原に下りずに、箱根裏街道と通り、御殿場にでます。相模国に行くにはここより国道246号線で行くことができますが、甲斐国には御殿場より国道138号線(旧鎌倉街道)で山中湖を通って河口湖へ行き、そこから国道137号線(御坂みち)の峠越えをすると、甲斐国府である春日居町(中央高速の一宮御坂IC近く)へでます。甲斐国分寺跡はICの少し東側にあります。また国分尼寺跡もその少し北側にあります。この少し北東に一ノ宮であると思われている「浅間(あさま)神社」があります。地名は笛吹市一宮である。総社も一宮町の甲斐奈神社(国分尼寺のすぐ北側)と言われているが、武田家が甲府の府中八幡宮に機能を移してしまった。古東海道としての甲斐国へのメインの道は駿河(静岡)から国道52号線を富士川に沿って北上し、身延を通るルートであったと思われる。

武蔵(むさし)国

国府は東京都府中市です。甲斐国からは国道20号線(甲州街道)でつながっているが、甲州街道は江戸時代に整備されたもので、昔はこの道路はなかった。江戸時代は青梅街道が大菩薩峠を経由して青梅から石和にでるいわゆる甲州裏街道がメインであった。古東海道としては、相模国(海老名)より国道246号線ではなく田園都市線の線路沿いに町田に行く。町田から鎌倉街道を北上する。多摩川を渡ると府中市である。国分寺はの鎌倉街道を進んだ北隣りの国分寺市にある。国分尼寺跡は少し南西側の西元町4丁目府中街道の西側にあり、現在公園として整備されている。総社は府中市の大國魂神社である。武蔵一ノ宮は埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社となっているが、当初は多摩市の小野神社で、氷川神社は三ノ宮であった。戦国時代以降に氷川神社が一ノ宮の役割をはたすようになった。全部で六宮まである。大国魂神社より国分寺までは府中街道が近くを走る。またここより鎌倉へも鎌倉街道が続く。鎌倉時代に府中の隣りの分倍河原で新田義貞と鎌倉軍(北条)との戦いがあった。鎌倉軍としては多摩川が最大の防戦ラインであった。この時に国分寺が焼失したといわれる。またこの戦に敗れて鎌倉幕府は崩壊に向かうのである。

安房(あわ)国

国府は千葉県南房総市(旧三芳村)府中です。しかし遺構が見つかっていない。安房国の名前が示すとおり、四国の阿波(徳島)より先人が海を渡ってやってきたと思われます。養老2年(718年)に上総国より房総半島の南側の4郡を分割して造られました。国府は館山市と隣接しており、館山市役所より旧三芳村役場への道の途中にある。総社は六所神社(館山市亀ヶ原)または国府近くにある元八幡神社である。しかしこの元八幡神社が館山市の鶴谷八幡宮へ遷座して、鶴谷八幡宮が総社の役を担ってきたと思われる。毎年9月に国府祭が行われ、元八幡神社の井戸より水を汲んできて鶴谷八幡宮の神前に供えられる。一宮は館山市の安房神社である。

上総(かずさ)国

国府は千葉県市原市です。上総国は大国です。常陸国、上野国と共に親王任国となっていました。このため上総守を簡単に名乗ることはできず、織田信長もその下の上総介に甘んじていた。国府のあった場所は五井駅より東に入った市原市役所の近くに国分寺と総社である戸隠神社があり、この近くとされていますが、遺構は発見されていません。また八幡総社が五井駅の一つ千葉よりの八幡宿駅西側に飯香岡八幡宮があります。幡宮の神前に供えられる。一宮は玉前神社である。関東の平氏は上総介となった平高望から始まった。代々の上総介を見てみるとかなり野心的な大物がなっており、かなりの力をもっていたものと思われます。

総(しもうさ)国

国府は千葉県市川市です。上総に比べて東京に近いが昔は武蔵国と下総国の間は広大な湿地帯で下田(走水)より舟でわたるのが正式なルートであり、上総が畿内に近かったので上となった。東京都葛飾区は下総国であった。国府は市川市国府台(こうのだい)の和洋女子大学国府台キャンパスと千葉商大にまたがる地域にあったとされる。総社は六所神社である。国府台公園にある市川市スポーツセンタの一角に碑が建てられている。明治19年に市川市須和田の六所宮へ遷座となった。一宮は香取神宮である。香取神宮は鹿島神宮と並んで武術の神であり、強大な神社である。国府よりはかなり離れているが昔は霞ヶ浦と印旛沼、手賀沼は一体の大きな内海(香取海)であった。その海の入口両側に香取神宮と鹿島神宮がある。

常陸(ひたち)国

国府は茨城県石岡市市です。東海道終点の国ですがここより北はまだ陸奥の地として統一されていなかったのです。国府は石岡小学校のグランドより遺構が見つかっています。グランドの一角に石岡市民族博物館があり、資料が保管されています。総社は小学校と並んでいる総社宮です。また国分寺は少し北側の現在の国分寺境内に金堂跡などが残されています。国分尼寺は若松町北側の府中小学校の北側尼寺が原に広場として保存されています。一宮は鹿島神宮であり、武術の神を祀り、強大な神社である。国府よりは高浜の浜より霞ヶ浦を舟で参拝に行ったのである。