鈴木忠良(三木三郎)の墓
鈴木 三樹三郎(すずき
みきさぶろう)は新撰組九番隊の隊長であり、府中の隣りの藩「志筑藩」の出身である。新撰組時代は三木三郎と名乗っていた。慶応元年に九番隊の隊長となったが、慶応3年新撰組より分離し、翌年鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の指揮下に入った。幕府追討の先陣を切って東征軍の先鋒隊として、相良総三らと「赤報隊」(赤心を持って国恩に報いる)を結成し、2番隊長となった。
しかし、赤報隊は新政府の許可を得て、「年貢半減」を宣伝しながら信州へ進み民衆の支持を得たが、新政府は偽官軍の汚名を着せ、1番隊の相良は諏訪郊外で処刑された。2番隊は新政府に従ったため、一時投獄されたが、のちの徴兵七番隊に編入された。3番隊は略奪が多く、多くの隊士が処刑された。相良は後に名誉回復が図られ正五位を追贈された。処刑場所「相良塚(別名=魁塚)」では毎年4月3日に相楽祭を行い、供養している。鈴木忠良は明治以降、司法、警察の仕事に携わった。 |