▼若宮八幡宮▼ 石岡市若宮2-1-3

歴史の里石岡ロマン紀行


 若宮八幡宮は石岡駅より八間道路をまっすぐ言った突き当たりの355線を右に曲がって最初の信号を左に曲がった八幡通りの突き当たりにある。近くには青屋神社や国衙跡の石岡小学校もある。同名の神社は日本各地に存在し、多くは「八幡宮の若宮」という意味で、八幡神応神天皇の御子神である仁徳天皇を祀るものであるが、ここは「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」であり応神天皇が祀られている。源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に建てられているが、ここは武家社会が広まるずっと前の728年の建設が起源とされる。

 かって常陸は奥州(東北)と接する北への守り処であった。常陸の国府(府中)を治める常陸介は重要なポストでもあった。鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖である八幡太郎義家が奥州征伐に出かけるときに武運を祈った場所として記録されている。しかし常陸の国が源氏と係わりを持つのは義家の弟の新羅三郎義光が常陸の介として常陸の地に赴いてからである。義光の子孫が常陸太田に土着しその後常陸を統一した「佐竹氏」となり、また義光の子源義清が勝田の近くの武田郷に土着した「武田氏」である。武田氏は周辺の豪族との衝突で、常陸より甲斐の国へ追放となり、甲斐の武田氏が始まったと考えられている。ちなみにここ石岡の地は常陸大掾平氏が長く治めていた地であり、大掾(だいじょう)の名は介(すけ)に次ぐ位の名前であり、大掾職を継いでいく間に名前となったものである。源氏ではなく関東の平氏の流れである。また石岡の前は府中平(たいら)村である。

毎年総社の祭り(石岡のお祭り)が終わった後の10月10日に例祭が行われる。

「若宮八幡宮由緒」

 神亀5年(728年)戊辰9月(奈良時代)この地に若宮八幡宮を建設せり、永保3(1083年)(平安時代)八幡太郎義家陸奥国安倍貞任清原武則追討のため奥州下向の砌当社に参籠して朝敵退散を祈願せり
應仁3年(1396年)(室町時代)太田道灌当宮に下向の節この神を崇敬参籠して武運長久を祈願せり
天正18年(1590年)(関白豊臣秀吉の時)焼失せり 慶長7年(1602年)(将軍徳川家康の時)別当福蔵坊と言う僧が本社並に拝殿を建立せり 寛永4年(1627年)(将軍徳川家光の時)皆川山城入道が本社拝殿を再建立して御供免10石を寄付せらる 寛永5年(将軍徳川家綱の時)領主松平伊勢守が本殿と拝殿を修復して應神天皇の御尊像を奉納せり 其の後星霜を経ること百有余年元文の頃(将軍徳川吉宗の時)別当欽長今の神社を改築して天下安泰を祈願せり

  <案内看板より:上部写真>

 

若宮八幡神社本殿 (市指定有形文化財(建造物)

桁行三間・梁間三間・一重
正面入母屋造・背面寄屋造
向拝一間 唐破風造

元文(1736〜1741)建立

 <市内残るに残る八幡伝説>

 平安の昔、八幡太郎義家が奥州征伐に実際に常陸国府に来たことを証明するように、市内に多くの地名と伝説が残っている。
・「生板池」(なまいたいけ): 石岡市東大橋(旭台との中間)

義家の軍勢が、兵糧の炊飯にその水が使われた(まないたをこの池で洗った)ことに由来する。また、軍勢が6万であったので、池のあたりは「六万」と呼ばれている。写真の背景に見えるのは石岡の市街であるが、ここ一体は寂しい池である。しかし樹木も貴重であり、一昔前はゴミが捨てられた池であったが地元の方々の美化運動でかなりきれいになったという。自然公園計画などもあるが、メイン通りよりわき道に入った位置のため昔の面影を偲ぶことができるかもしれません。(フナ釣りもできるという)

・「正月平(しょうがつだいら)」: 石岡市三村(八幡)

義家が父頼義と奥州安倍氏(安倍晋三元首相はこの安倍氏の末裔との話しあり)平定のために、ここを通った時(前九年の役)、義家を乗せた軍馬が大変疲れており、馬の背から鞍をおろし、1本の松の枝に鞍をかけて、馬を休ませた。この時村人は乏しい貯えの中から赤飯を炊いて義家に振舞った。その後、人々は八幡神社を建立し、旧暦8月15日を祭日とし今でも祭っている。義家の軍勢が通ったのが正月であったので「正月平」の地名となったとのことである。また、「鞍かけの松」「八幡鞍掛」などの地名もつけられた。その当時の八幡(三村)はわずか3軒の里人のみであった。このことは「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表している。また「黄金のはたし」を残した。この黄金のはたしは江戸時代まで地元にあったが、歩崎観音様と言われる真言宗の寺(歩崎山宝性院長禅寺)に奉納され、33年目ごとの縁日に開帳されたとのこと。最近では昭和23年、56年に開帳されている。また、中津川から恋瀬川の橋をわたった三村地区手前の田圃あたりの地名を「かいつづみ」というそうであるが、これは八幡太郎義家がいよいよ正月を過ごした後、奥州に出発した際この湿地帯で歩行困難となってしまった。その時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたという。このため「茅堤」と言う名が付いた。これが訛ってかいつづみ(地元では「かえつづみ」と発音)となったもの。

右写真(八幡神社)は正月平(三村の町の南側の高台、常磐線の東側)の住宅があるところから三村へ下る途中の左側の山の中にある。小さな神社であり、案内板などもないので見落としやすい。

・鹿の子の「五万堀」: 石岡から柿岡への道筋に残っている地名であるが、義家が石岡の隣りの千代田町(現かすみがうら市)にある「四万騎ヶ原」(しまきがはら)で四万の軍勢を整え、鹿の子に来たときは五万にふくれあがったといわれることに由来するのである。堀は今はほとんど埋められてなく、鹿の子の入口あたりにあったようである。鹿の子は昔蝦夷への兵器工房の跡(鹿の子遺跡)が高速道路施工の際に見つかっており、江戸時代は府中松平藩士屋敷があった場所でもあります。その他、石岡から岩間へ向かう途中にも「五万堀」(小美玉市羽刈)という地名が残っています。これらは「後三年の役」で関東武家の結束を固めた時のものと考えられる。

   石岡の昔ばなし 仲田安夫著 ふるさと文庫 (1979年)
石岡の歴史    石岡市史編さん委員会   (1984年)
石岡の地名    石岡市教育委員会   (1996年)