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▼茨城(常陸国)を統一した佐竹義宣とはどんな人物?


佐竹氏の成り立ちについて

 戦国時代に常陸の国を統一し、家康に秋田へ追いやられた佐竹氏とはどんな家柄でしたでしょうか? あまり戦国武将としても名前を知らない人が多いのですが、れっきとした清和源氏の血を引く源氏の家系であり、豊臣秀吉には非常に重要な人物と思われていました。

 源氏の家系については前に述べましたが新羅三郎義光(源頼朝の祖八幡太郎義家の弟)が常陸介(ひたちのすけ)の要職についたところから始まります。常陸介は源氏物語などにも良く名前がでてきますが。今の県知事の職と思えばよいでしょうか。義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされており、今から八百数十年前のことになります。その後、奥7郡を支配していたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました(日の丸扇ともよく言われています)。

 戦国武将として名を馳せたのは義宣(よしのぶ)の父義重(よししげ)からであります。義重は同じ源氏の流れをもつ武田勝頼にはつかず、はやくから信長と友好を結び、1574年に信長の奏請により、従五位下常陸介に補任され、その力をもって周辺諸国に勢力を広げていきました。“佐竹の鬼将軍”と称され、大変恐れられた人物のようです。

佐竹義宣の誕生

 義宣は1570年に父義重と伊達晴宗の娘(徳寿丸)を母として太田城で生まれました。伊達政宗は3歳年上の従兄弟になります。この義宣が佐竹の家督を相続したのは17歳の時であり、信長の死の4年後にあたります。この相続した時は佐竹家にとって大変な年でありました。父義重は信長亡きあと、柴田勝家を破った秀吉のもとへすぐに使者を派遣し秀吉の戦勝を祝い、秀吉へ味方を印象づけ、関白となった秀吉との親交は深まっていきました。しかし、北の伊達政宗とは従兄弟同士でありながらお互いの抗争は激しくなる一方で、非常な危機状態となっていました。そんな中、1590年の秀吉からの小田原北条氏討伐の指令を受け、すぐに伊達政宗との交戦を中断し兵三千を率いて小田原へ参陣し功績をあげたのです。その武勲をもって秀吉から、常州の旗頭になるよう命ぜられます。これを足がかりに水戸城に江戸重通を攻略し、また府中城(石岡)の大掾清幹(だいじょうきよもと)を滅ぼし、1591年には従四位下侍従に補任され右京大夫となり、秀吉から「羽柴の姓」を与えられるほど信認されたのです。

常陸国の統一

 義宣が常陸国を統一したのは、不平不満を唱える南方33館の諸氏を一斉に謀殺に処して完成しました。鹿島,行方郡旧族を太田城に招き、もてなしの酒盛りを張り、油断をみて斬殺、さらに兵を鹿島・行方に使わし、三十三館の残党はことごとく滅ぼされてしまいました。このとき義宣はまだ弱冠22歳でした。このような策士でもあった義宣については当時の話として大分用心深い人であったようで、寝床も毎日位置をずらし、屋根から毒殺されることを恐れており、また襖を開ける時も刀を使って開けていたなどとも伝えられています。秋田へ移る前の佐竹義宣は安心して眠ることもできなかったのではないでしょうか。

 1595年に秀吉より常陸国54万5800石の領地を与えられ、全国400近い諸大名のなかで第8位の領主となります。加藤清正(きよまさ)でさえ25万石、石田三成など19万4千石からすればその石高の多さがわかります。また実際のは石高はもっと多かったようですし、秀吉の居城伏見に私邸を与えられていたので、秀吉からの信望は大分厚いものであったことがうかがえます。

佐竹義宣の国替え(常陸から秋田へ)

 1598年、秀吉が亡くなるところから、佐竹氏の立場が難しくなりました。徳川家康と石田三成との葛藤が始まったのです。関ヶ原の戦いを前にして、義宣は秀吉から受けた恩顧や石田三成との友情により豊臣家西軍方となるか、または先見の明のある義宣としては“時代の先取り”として徳川家東軍にくみするか、迷います。その結果、父の代から豊臣家と親交してきた佐竹義宣は、どちらに味方しても、いずれは外様扱となるものと自覚し、天下を分けた関ヶ原の戦いに、あえて鳴かず飛ばずの態度でどちらにも曖昧な態度をとったのです。

  関ヶ原の戦いで勝利した家康の信賞必罰は迅速に実施されました。各地の諸大名は、敵味方の別なく家康のいる伏見城へ上洛したのに、父の義重が家康に謝罪に出向きました。その時、当主である義宣は、江戸上野の森に、10年前に太田城で自害を遂げた正室の那須氏の娘(正洞院)のため、寺院の建立をはかっていたのです。、義宣がようやく家康のもとへ上洛したのは家康の要請によるもので、1602年3月のことで、諸大名の処分もほとんど終わり、残るは佐竹氏とその一門だけという状況になっていました。上洛の挨拶も無事終了し、伏見屋敷でくつろいでいた義宣のもとへ、5月8日に家康の使者が訪れて、佐竹一門の所領没収が下知され、義宣には出羽国秋田への転封が告知され、その朱印状は禄高の明示もなかったといわれています。西軍の大将島津義広や鍋島直茂でさえ所領安堵となったので安易な気持ちでいたに違いありません。非常に厳しい処分であったようです。上杉景勝との密約が露見したとする説もあるようですがはっきりしていません。先祖以来約500年にわたり住み馴れた常陸国を去らねばならない義宣の気持ちははかり知れず、史書には“晴天の霹靂(へきれき)”であったと記録されています。

 国替えの命を受けた義宣は、常陸国に戻らずに、最小限の家臣を随行し、そのまま9月17日、安東秋田氏の旧城・湊城(みなとじょう)に到着しました。この秋田の地で、心機一転して悲壮感のこもる義宣の秋田の国づくりが開始されました。久保田城を新築、全国一貫の道路造り、久保田の町づくり、そして農鉱一帯の秋田の国づくりが実施されていきました。その後家康には秋田杉を大量に運び江戸の発展をささえ、家康から大変な律義者と称されるようになっていきます。それから、400年間の秋田県の基礎を築いていきます。

国替えの詳細は秋田市「佐竹史料館」の資料を参照下さい・・・佐竹義宣の国替記へ