▼関東における平氏について-平氏のおこり ■平氏の祖は平高望、平国香である? 源平合戦と呼ばれる場合は源氏と平家(へいけ)と言うように、平氏とは呼ばれない。この平家というのは一般には室町時代の後期に京の都で一大勢力を築いた平清盛を代表する「伊勢平氏」のことをさしています。このため、西の平家に対し東の源氏との一部でいわれている様に、平氏も西(関西)が中心と考えられがちですが、この平氏(桓武平氏)の起こりは室町幕府(平安遷都)をおこした桓武天皇の曾孫「高望王(たかもちおう)」が889年に宇多天皇より平(たいら)姓を受けて皇族(貴族)より下って(臣籍降下)、上総介に任じられ、上総の国(今の千葉県東部)にやってきたことが始まりだといわれています。平高望はこの元皇族である地位と人脈を使い地方の豪族と仲良くなっていきます。そして勢力を関東一体に拡げていったのです。未開拓の土地などの開墾なども積極的に行っており、関東の発展に寄与したといっても過言ではないでしょう。この桓武天皇の系列は桓武平氏とよばれ、関東に根を張っていった高望王の系列と京の都に公家として残った高棟王の2つの系列があり、この高棟王系列より清盛の妻「時子」が出ています。 この高望の子供が「平国香(くにか)」「平良兼(よしかね)」「平良将(よしまさ)」「平良文(よしふみ)」などですが、長男「国香」はその後下総から常陸国へ、良兼、良将は上総国から、下野国の地方に勢力を拡大し、その他平良文一族は坂東八平氏として関東全体に勢力を拡大して関東武士の基礎を作っていきました。また平清盛は平国香の子孫にあたり国香から数えて3代目になります。 ■将門の乱(承平の乱) 平高望の子供たちはこのように関東各地へそれぞれ開墾なども行いながら勢力を拡大していきましたが、平高望の3男「良将」の子「平将門」が935年に反乱(承平の乱)を起こし、平氏同士の戦いが始まります。この戦いで「国香」は殺され(自害)、常陸国府(現石岡市)は将門の3000人の兵に囲まれ、町を焼かれ、常陸介藤原維幾は降参し、国衙の印を奪われてしまいました。この結果、関東一円を支配した将門は新皇を名乗り、茨城県岩井(現坂東市)に新しい国家を宣言して京の朝廷と対立してしまいます(939年)。将門は生まれは関東で、幼少時代を過ごしますが、後に京の藤原北家にて世話になり、主従関係を結びます。そして930年に京より関東の地に戻ってきました。しかし、関東に残っていたと思っていた自分の土地は国香などが占拠しており、わずかな土地からの再出発となってしまいました。しかしその後、将門は新たな土地を開拓し、そのたぐい稀な武力と精神力で勢力を拡大していきました。しかしこの新たに手に入れた土地も「国香」や「源護(みなもとのまもる)」らに狙われ、争いになってしまいました。やがて、関東平氏同士の争いとして935年に承平の乱が始まります。しかし将門の武力は非常に強く、源護の3人の子供は殺され、国香も自害に追い込まれてしまいました。源護の子供が殺されたため、姻戚関係にあった平良正(たいらのよしまさ)が将門追討に兵を挙げます。しかし、将門の武力の前に破れ、兄の平良兼(国香の弟)に援助を要請し、平良兼(よしかね)は国香の子、平貞盛(さだもり)と共に将門の討伐に参戦します。それでも将門は圧倒的に武力で勝っており、たちまち3人を追い込んでしまいました。やっとのことで3人は都に逃げ込んで朝廷に将門の処罰を要請し、将門も都に呼び出されますが、将門は都にも協力者をもっており、恩赦もあり、許されて坂東に戻ることが出来ました。しかし、良兼らは再び将門に戦を挑みますが、当初は全て負けてしまいます。そしてついに939年11月に常陸国府(現石岡市)を約1000名の兵で襲い国府の印と鍵を奪い取ってしまいまた。この時常陸国府は町中を焼かれてしまったのです。(国府には3000名近い兵がいたのに、それ程将門は強かったのです。今でも国府では将門は敵です)。また、その後、下野(しもつけ:栃木県)、上野(かみつけ:群馬県)の国府を占拠し、下総(しもふさ)国で「新皇」を宣言して、関東に新たな国を樹立してしまいました(939年12月)。これにより完全に「朝敵」となった将門は、朝廷の援護を得た藤原秀郷・平貞盛連合軍4000で将門への攻撃がはじまり、940年2月流れ矢に当たり将門は39歳でこの世をさってしまいました。 ■将門の首が空を飛んだ?? 将門の首は京の都へ運ばれ、東市(現:下京区四条新町)にさらされました。この将門は当時の京の都では、富士山の噴火(932年、937年と噴火が続いた)などもあり、不吉な世を暗示するかのようで、大変恐れられていたため、その首の形相がものすごく、死してもまだ動いて噛み付いてくるようで近寄る人もほとんどいなかったといわれています。2月に戦死し、京にさらされたのが4月であったのに、その首は夜な夜な恨みの言葉を発したとも噂は尾ひれがついてまことしやかに囁かれていました。そして、ついにその生首は故郷(坂東)を目指して空を飛んでいいって、途中力尽きて、江戸大手町に落ちたため、そこに首塚と将門を祀る神田明神が建てられたといわれています。この首塚は、東京大手町の高層ビルにはさまれたところにあり、今でも、昼でさえ薄暗い場所です。また、ここは、江戸時代には大老酒井雅楽頭の上屋敷があり、伊達騒動で原田甲斐が殺傷事件を起こした場所でもあります。また将門の首塚は他にいくつか存在し、事実はどこにあるかは不明ですが、胴塚は坂東の地今の岩井市に存在します。また岩井市では毎年、将門祭りが盛大に行われています。ところで、当時(1000年以上前)の江戸(東京)はどのようになっていたのでしょうか。徳川家康が江戸に幕府を作る前は、多くの川が現在の東京湾に注ぎ、湿地帯でまともな交通は出来なかったのではないでしょうか。古道東海道は江戸は通らず、東京湾を舟で渡っていました。また、武蔵の国は現在の府中市にあり、神田や大手町あたりは本当に陸地であったのでしょうか?また江戸の語源は川が集まっている戸口と言われており、霞ヶ浦は香取の海と呼ばれる大きな内海で、利根川は江戸時代に人為的に東遷されたのです。将門は江戸の庶民には人気が高く、将門の首塚は後から作られたものと考えるのは風情がないでしょうか。しかし、神田明神のホームページによると、創建は730年ですが、将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)に神田明神に奉祀されたと記されています。 ■安倍晴明(陰陽師) |