▼日の丸の起源▼その4-新羅三郎の伝来の笛にまつわるお話 ■日の丸の御旗の由来 新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜された「日の丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。 さて、この日の丸の御旗は何故長男「義業」ではなく「義清」に渡ったのでしょうか。詳しく書かれている文献が見当たりません。もし、「義業」に渡っていればこの家系は常陸国を統一し、秋田藩を400年栄えさせた佐竹家ですので、武田家の家宝についても、何かいわくがありそうですね。 ■新羅三郎義光に係わる昔話 武勇の達人である新羅三郎義光は笙(しょう)の名手でもあり、いろいろなエピソードが残っています。そのいくつかを紹介しましょう。 【源氏の白旗】【流鏑馬】 新羅三郎義光は、兄の八幡太郎義家が奥州地方の反乱をしずめるために戦っているのを助けようと朝廷の許しが無いにも係わらず、京を出奥州へ向かいます。途中、甲斐の国にさしかかった時です。山深い甲斐で道に迷い、一歩も前へ進めなくなってしまいました。その時、黒い立派な馬をひいた不思議な木こリが現われ、義光に道案内を申し出たということてす。 冨士御室浅間神社の流鏑馬はこの時からはじまったと言われています。 【新羅三郎義光吹笙の石】 群雄割拠の時代にあって森羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。 その後、三郎義光は奥州で苦戦していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。 【新羅三郎義光伝来薄墨笛】 源義経が牛若丸時代から愛用したといわれる横笛。七百年の風雪に耐えて奏者を得ればいまにさえた音色を惜しむところがないといわれ、駿河国新風土記の久能寺の条に「源義経所持薄墨の笛、此笛蝉(笛につく装飾金具)なし中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置り」とあります。また駿国雑誌巻二十九上有度郡の条に「義朝朝臣の常に手馴持玉ひし漢竹の蓬調の薄墨と名付けたるを常磐の方より御曹司に伝え置れしを身を放たず携玉ひ」また「浄瑠璃姫別れの悲しみにたえず終にむなしくなれり。母は姫の年ごろ携る所の器物を蓬莱寺に納め薄墨といえる笛は駿河国有度山久能山に納玉云々」と記されてあります。 牛若丸が五条大橋で弁慶をやっつけて家来にした際持っていたのは、日の丸の扇とこの横笛です。牛若丸こと源義経が壇ノ浦で大活躍し、平家の滅亡につながったのですから、非常に興味深い話ですね。 (続く) |