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▼日の丸の起源▼その5-武田家に関する逸話


武田家に関する逸話 

 長篠の戦で敗れた後、天目山の戦で武田家はついに滅びてしまうのです。もっとも信玄により自害されられた長男にかわり、相続すべき次男は盲目であったために家督相続できなかったそうで、その子孫は現在も健在とのことです。一方武田家は勝頼の死後、信玄の孫(信玄の養女が母との説)が、真田幸村となって大阪夏の陣で家康を追い詰めますが、討ち死にして武田家が途絶えたとの見方が一部でありますが、真田幸村は武田の武将真田昌幸の次男であり、信玄の弟「武田信繁」より名前をつけて源次郎信繁が本名です。この武田信繁は信玄の影武者となり、川中島の戦で戦死しています。幸村についてはまだまだなぞの部分が残されていますね。これが歴史を面白くさせています。

 真田幸村は魅力的な武将です。中国三国志の諸葛孔明を思わせる魅力がありますね。真田十勇士など数々のロマンの物語が生まれています。ここは日の丸のお話ですから、真田幸村の話は他に譲って、当時の家紋が戦時中にどのように使われたのかについて、興味深いお話をします。

真田幸村の旗印 

 1567年(永禄十年)、武田氏に仕える信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生しました。これが後の真田幸村です。 1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦に破れ、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。
「わが軍は、わずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか。」思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進み出ました。「父上、私によい考えがあります」「おお、幸村か。よい考えとは何じゃ」「私に紋のない旗をお与え下さい」
 幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着いたのです。
「でかしたぞ。幸村。これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」こうして、幸村は六文銭の旗印を持つことになったのです

武田の旗印-風林火山

 一般的に風林火山として知られている武田軍の旗印。もともと「風林火山」という言葉は、中国の孫子によるものだそうです。そして、この風林火山には続きがあります。 

其疾如風:その疾き(はやき)こと風の如く 
其徐如林:その徐か(しずか)なること林の如く. 
侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く 
不動如山: 動かざること山の如く 
難知如陰:知り難きこと陰(やみ)の如く
動如雷震:動くこと雷の震う(ふるう)が如し

すべてを用いれば、『風林火山陰雷』となりますが、語呂が悪いですね。最初の4つを採用したところは武田信玄のセンスの良いところでしょう。知り難きこと陰の如くを採用せずに「御旗・楯無も御照覧あれ」と盲目的に突撃した武田軍と太平洋戦争中の日本の特攻隊にも何か共通するものが感じられます。分からないことをどうやって知ろうか? 情報をいかに正確に伝えようか? 世界は益々難しい局面に入ります。歴史に学ぶことも多いように思います。

                            (続く)