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▼1300年の歴史の里 常陸・茨城・石岡の語源について


 今回から歴史の里石岡のことについて、皆さんに少しでも知っていただきたいと願い今までに調べた内容などをお話していきたいと思います。 

常陸の語源

 いろいろなサイトに語源を載せているものがあり、興味深く調べてみました。そうすると、地名はその土地の置かれている姿を現しているものが多く、豪族などの氏の起こりはその土地(郷)の名前から発生しているものが多いようです。例えば「江戸」は江戸氏が住んでいた土地であるからとの説も一部にはありますが、これは川の入口(戸口)であるところから付けられたものと解釈するのが一般的です。

 さてでは「常陸(ひたち)の国」の常陸とはいったいどうして呼ばれるようになったのでしょうか?『常陸国風土記』によると、「常陸国は堺は是れ広大(ひろ)く、地もまた緬貌(はろか)にして、土壌も沃墳(つちこ)え、原野も肥衍(つちこ)えて、墾発(ひら)く処なり。」とあり、道が真っ直ぐに続いている土地という意味で「直道(ひたみち)」からきているという解釈が一般的です。但し似た意味でもありますが、「平らな(真っ直ぐな)土地」「乾いた台地」などという解釈もあるようです。

 その他、「蝦夷(日高地)へ通う地」、「ヒタ:山奥の奥の地」(飛騨などの語源か?)やマオリ語(現ニュージランドの言語=古い日本語との関係も強いとされる)の「ヒ・タハ・チ」(高い筑波山と瓢箪のような霞ヶ浦が放り出されている土地)がその語源とする解釈もあるようです。確かに先日、この土地を空から見渡す機会があり、自分の住んでいる土地を筑波山と霞ヶ浦を基準に探してみますと、霞ヶ浦から筑波山一体は確かに肥沃な広大な土地が広がっているのがわかります。また旧東海道の終点が常陸国であることを考えても「ひたみち=直道」またはマオリ語の「高い・瓢箪が放り出された形の地」がその語源と考えるとなんとなくわかる気がしてきます。。

また常陸風土記に出てきます「常世の国(陸)」=「神仏の国」の意味であると言う人や、倭武尊(やまとたけるのみこと)が、井戸から流れ出る美しい泉で手を洗おうとして着物の袖をひたし濡らしてしまったため、この「袖をひたす」ことからあるとの説、さらには、「太陽が昇る東の国「日立」が語源」と考えられなくもありませんが、上で述べた平らな真っ直ぐな土地の言葉からできた「常陸」を後から別な解釈をしたと考えるべきだと思います。

(注)「常陸国風土記」の総記に、常陸国と名づけたわけの一つは、倭武天皇が東夷の国を巡察のおり、新治の県に行幸した。そのとき新治の国造を遣わして、新たに井戸を掘らせたところ、流れ出た泉は清らかに澄んでいて、素晴らしいものであった。そこで乗り物を停めて水を賞美しながら手を洗ったところ、着物の袖が泉に垂れてぬれてしまった。そこで「袖を漬す」という言葉をとって、この国の名称とした。風俗の諺に「筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬の国」というのは、このことである。とみえる。すなわち昔からの言い伝えとして伝わったものであるとの意味がこめられている。(石岡の歴史より抜粋)

追記:常陸は東北地方への玄関口・守り所の役割が非常に強く、はじめ常陸を「常道」と書いていた時の東北地方は「道奥」と書き、「常陸」と書くようになってからは「陸奥(みちのく)」に変わっています。古代国家の形成時期には東北地方は統一されておらず、常陸国が陸奥の開発をするための拠点として重要な役割を担っていたことが分かります。このため常陸国の国司は古代においては非常に重要なポストであったことも容易に推察されます。(2007.4.6)

茨城の語源

 茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。この敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられた。」となっています。穴を掘って生活をするということは鉄や金銀を掘っていたのでしょうか。この討伐の時期としては、第10代天皇の崇神天皇(在位前97〜30)の時代です。

 では常陸風土記にある香島郡(かしまのこおり)とはどのあたりでしょうか?香島(かしま)は現在の鹿島神社の鹿島と同じ呼び名と思われますが、香島郡(かしまのこおり)は那珂川の河口付近ではないか(那珂湊や涸沼近辺)との説が有力なようです。

訂正:上の説は筆者の勘違いのようです。香島郡については常陸風土記に那賀と香島との境なる阿多可奈湖(あたかなのみなと)と書かれており、この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされており、従って香島は涸沼または那珂湊よりも南側となります。(2009.5.17)

昔の地形は今とは大分違っていたと思われますので、各地で自分のところが「地名発祥の地」であるといっておりますが、根拠は曖昧なものになっています。よくわからないというところが正しいのでしょうか。

 友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています。また、地形から茨城県の真ん中である美野里町(来年には小川と玉里と合併して小美玉市になる)が地名発祥の地であると昔の「茨城郡」の解釈から言われている方もおられます。さらに日立市の北西部、阿武隈山地にある竪破山(たつわれやま)は巨石信仰の山(標高658m)ですが、黒坂命をまつる黒前(くろさき)神社があり「黒坂命(くろさかのみこと)が竪破山を根拠にしていた豪族を茨を使って滅ぼした」ところから茨城の発祥の地と伝えられています。

 私の住む「石岡」駅前には「茨城県名発祥のまち」の看板が立てられています。石岡市の南東部にある「ばらき台団地」にその「茨城の地名発祥地」の看板が立っているとか・・・。でも、近くですがまだ見に行ったことはありません。(※1)ただ石岡は黒坂命の時代からみるともう少し後の時代から栄えたのではないでしょうか。すなわち大化の改新で常陸国の国府が現在の石岡に置かれたのですから、茨城の名前発祥についてはもう少し古い時代のため明確な根拠は乏しいようです。

 (※1):その後、看板の場所を見つけました。スーパのすぐ前の高浜街道に面してスーパーとは反対側にあります。しかし、看板の文字は風雨で薄くなってやっと読める程度です。もう少し整備をしていただいた方が良いでしょう。何度もその前を通っていて気が付かなかったのですから・・・ (2007.9.1記)

 さて別の解釈は、「常世の国(常陸)にはカカセオと呼ばれる星の神がいて、昼間は岩の間に隠れており、夜に外に出て活動を始めるわけです。この神の夜の活動を抑えるために、昼間隠れる岩の周りに茨の木を敷き詰めた」との解釈ですが、これは信仰と民話の世界と考えられますね。

(※2):常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」特集に誕生の経緯の記載がありましたので紹介します。−明治2年6月の版籍奉還の時点で茨城県域は14藩があり、すべて藩主が藩の知事に任命された。14藩は水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生の各藩であった。この中で谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わって明治4年7月14日の廃藩置県の時は15藩が存続していた。中央政府は政府の権力を強化するために、薩摩、長州、土佐の3藩の武力を後ろ盾に「廃藩置県」の詔書を出し、各藩は抵抗せずにこれを受け入れた。茨城県域の15藩は、この廃藩置県でそのまま15の県(正確には若森県(旧天領地)を含め16県)となった。その年の11月13日にこれらは3県に大別された。すなわち茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)である。県庁はそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれた。この時はじめて「茨城」という名をもつ県が誕生したのである。(今でも11月13日が県民の日である)。明治6年7月に、茨城・新治の両県を統合して新たに「石岡県」を設置しようとの案が政府内で検討されたが実現はしなかった。明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入され、逆に千葉県が管轄していた一部の地域が茨城県に編入されて現在の茨城県域が形作られた。結果的にみて茨城県は旧水戸藩を中心にその他の藩を吸収してまとまったと言える。茨城県の県名「茨城」は水戸が茨城郡に属していたことからそのまま県名になったものとされるが、茨城の語源は、奈良時代の「常陸風土記」の冒頭に「古は常陸とはいわず、ただ新治・筑波・茨城・那珂・久慈・多珂の国といった」というような意味のことが書かれている。この「茨城」の読みは「うばらき」とするのが研究者の間では一般的になっている・・・(中略)・・・この後、風土記に記されている二つの説を紹介している。ひとつは黒坂命(くろさかのみこと)が服従しない者たちを悪賊とし、外に出た時をねらって、茨棘(うばら)を住居である穴ぐらにしかけて馬で追いたて穴に戻ったかれらが茨棘のトゲに傷つき死んでしまったもの。もう一つは茨(うばら)で城を造ったというものである。これは先に記載した内容と同じである。藝文では「茨城」の言葉の由来に定説はないとされ、さらに次のように記載されている。「風土記の二つの説話には、現代の地方立脚の見地からすれば受け入れがたいものがある。黒板命が征伐したのは、大和朝廷にとっては悪賊であったが、地方の側からすれば土着の先住民である。まさに中央史観、一方的な見方だが、風土記の成立事情を考えれば、むべなるかなと言える。・・・何しろ、中央集権化を進める明治政府が、地方支配をより強固なものにするために新たに設けた行政区画の名称である。それは中央集権化の象徴として政府関係者があえて用いた名称であったかもしれない。」また水戸は県庁はとったが「水戸県」の名称の実現はできなかった−としている。(2007.12.1追記)

石岡の語源

 石岡市は645年の大化の改新で常陸国が誕生し、その国府がおかれておりました。従って奈良・平安時代は常陸国の「国府」とよばれておりました。江戸時代になり、1661年水戸藩初代・徳川頼房の5男・松平頼隆が新田2万石を分与されて水戸藩支藩として成立した(常陸)府中藩(松平藩)となりました。このため「府中」の名前が一般的でした。ただこの府中の名称は「その地に昔国府があった土地」的な意味合いがありましたので、各都道府県にも多くの「府中」とついた地名が多いようです。この「府中」が「石岡」に名前を変えたのは、1869年(明治2年)版籍奉還の直前の6月22日のことになります。府中藩は石岡藩と名前を変え、1871年7月の廃藩置県では石岡県と名前が変わり同年11月に新治県となり府県統合され茨城県に統合されました。この府中の名前が変わったのは常陸府中だけではなく「駿河府中(駿府)」は「静岡」に変わり、対馬(府中)藩」が「厳原藩」に変わっています。また、甲州府中は「甲府」ですね。しかし本来の甲斐府中は現在の甲府よりも石和に近い御坂町です。武田氏が現在の甲府に中心を移したことによります。武蔵府中は今の東京都府中市としてそのまま府中の名前が残っています。また、この石岡の名前の由来は定かではないとのことです。お分かりの方がおられましたら是非お知らせ下さい。*注1)2)

注1):本件の由来についてメールをいただきました。「石岡の地名の起こりについては、過去諸説がありましたが、現茨城県立歴史館歴史資料室長である桜井 明氏の平成8年:市名「石岡」の由来について:という論文が現在のところ、正論であろうと推定されます。 」とのことであり、早速図書館にて資料を閲覧いたしました(平成8年10月に出版された「石岡の地名-ひたちのみやこ1300年のものがたり-」)。下記抜粋。

「明治2年の版籍奉還時の藩名改称にともなって府中が明治新政府の命令によって改称された地名であり、当該期から530年以上も前にこの地域にあったことが府中の旧家の文書から確認される「石岡城」から当時の府中藩交議人兼子庫之介・公用人関鑛三郎によって選出されたものである。そして石岡は、もともと13世紀末の常陸国衙の在庁官人の「仮名」に由来するしており、それが「城名」→「藩名」→「町名」をへて現在の「市名」となっている呼称である」となっております。

ただし、本文によると石岡城は13世紀末となっていますが、現在石岡市貝地にある「石岡城」跡が存在しますが、これは建保2年(1214)に大掾馬場資幹が築城したとされており、「吾妻鏡」には 「東鑑建保2年4月に常陸国府中間之事。税所定元文書府中石岡城」、「建久元年馬場資幹、源頼朝に観し随兵となる…略…資幹在庁となるに及び居館を府中に構え、在庁之間は披の地に在って府務を行ふ。石岡城是なり」と記載がされているとのこと。室町時代初期の1338年に大掾氏が府中城に移るまで、代々大掾氏の居城となっていたといわれており、もう少し由来には定かでない点も残りそうである。アイヌ語説なども面白いかもしれません。
(訂正追記):上記の石岡城の記述は間違いであるとのご指摘をいただきました。まず、「吾妻鏡」には上記のような文言は載っていないこと。「石岡城是なり」の記述は今泉義文氏が総社文書大掾伝記の中に書かれているとされたが、これは、中山信名叙述の「新編常陸国誌」の一説を手塚正太郎がメモ的に書き留めておいたもので、手塚氏没後、このメモが史料として流布してしまったものである。と記されています。この語源など明確な史実に基づいている内容かどうかも、判断は難しいですね。本内容については「石岡の地名」の総説に櫻井明氏が詳しく述べておられますので興味のある方は是非参考にしていただきたいと思います。(2009.5.17追記)

なお、静岡の方の名前の由来も同じような経緯を経ており、「駿河府中藩」から府中にするのは「不忠」に通じるということで浅間神社の裏手の「賤機山(しずはたやま)」から「賤ヶ丘」が予定されていたが「賤」は「賤しい(いやしい)」に通じることかや「静」の文字を使い「静岡」となったとのこと。何か同じ徳川の色を薄めたい明治新政府の意向があるように思われます。同じ「岡」の字がつくのも何かの縁があるのかもしれませんね。(2006年11月4日追記)

注2):石岡の由来については、この土地に来てあちらこちらを歩いてみてぼんやりですが、感じてきたものがあります。以下に私の考えを述べてみます。この地は恋瀬川と薗部川に挟まれた台地に位置し、石岡台地と呼びます。この台地は海抜25〜30mです。今から約12万年前(最後の氷河期)には海の浅い部分の台地となっていたことが長年の研究によって分かってきました。この頃の海岸線は現在の海抜では約50mくらいのところと推定されています。風土記の丘の裏山に「波付岩」があり、この辺りに波が押し寄せていたことになります。石岡台地はこの時代から海の浅い台地として形成されたものと考えられています。石岡市内の唯一の山である竜神山は標高164mであり、現在の市街地域では、この地域のみが陸地であったことになります(柿岡盆地の一部までが海になっていた)。その頃の断崖などが地形的に残っています。また、この竜神山は大変古くから信仰の山であり、雨乞いの山として地域の人に親しまれてきました。ところが最近その山が民間に渡り、採石場として昔の姿が変わってしまっています。竜の頭と胴体を繋ぐ首の部分がほとんどなくなってしまっています。とても悲しいことに思えてなりません。ここの石は主に砂岩粘板岩互層でできており、常磐高速道路などにも使用されたとのこと。すなわち、この石岡台地も岩盤層で形成されている硬い台地であるものと考えられます。岡の意味は少し高くなった場所の意味としてひろく使われており、福岡、盛岡、岡山、岡崎、静岡など多くの地名に使われています。この石の台地からいつの間にか呼ぶようになったものと考えるのがすっきりした解釈のように感じます。また「潮(うしお)の寄する丘」が言葉の発祥起源と考えるのも素敵だと思います。ロマンの薫る街として石岡が多くの方に知ってもらえたら幸いです。(参照文献:石岡史・下巻、石岡の歴史) (2007.9.1追記)

注3):石岡の由来について別な解釈が載っていましたので参考までに追記します。もともと常陸国府としての石岡ですが、石岡の読み方は昔「こくふ」となっていたという説です。石は百万石などで使われる読み「こく」であり、岡は「ふ」と読むというものです。しかし岡の字は本来の山の字が重なったところからきており、「こう」と読むことができます。国府=コウ(コフ)とも読みますのでどうやら国府の意味合いからきているのかもしれません。(2007.11.23追記)
(訂正追記):上記の「岡」を「ふ」と読むのは無理であり、「こくふ」と聞いて→「石阜」と書かれ、これを「いしおか」と読んだのではないかとご指摘を受けました。また「常総の歴史」創刊号(1987-12)の常総の地名特集号に岩田敏男氏が「石」を「こく」と読むようになったのは室町時代中期から後期にかけてであり、南北朝初期に初見する「石岡」にあてはめるのは時代的に考えにくいと述べておられます。また同じ「常総の歴史」創刊号に前述の櫻井明氏の−地名からみた「石岡城」の位置について−と題した文章の中で出典等を明らかにされておりますので興味のある方は是非参考にしていただきたいと思います。(2009.5.17追記)

注4):石岡を流れる恋瀬川の由来も載せておきます。恋瀬川は名前に恋の字がつくイキな名前ですが、常陸風土記では「信筑(しずく)川」となっており、「表川」と呼ばれている時代もありました。ただし、川の上流から下流まで同じ名前ではなくいろいろに呼ばれていたようです。その名前を挙げると、古伊勢川、古初瀬川、高鞆川、高友川、信筑之川、志筑川、国府瀬川、前川、表川、鯉川、市川、中津川などです。鯉瀬川との記述は見かけないが、これは鯉が浅瀬でキラキラ輝くさまを表したものとされ、これが恋瀬川の変わったとの説を唱えるものもありますが、しかしこの恋瀬川のなまえは「国府(こう)瀬川」がその語源ではないかとも言われています。さて、平成8年に発行された「石岡の地名(前述)」によると、この川名が正式に採用されたのは今から約170年前に、時代は浅間山の大噴火があり、大風雨など天候が数年にわたって悪く、穀物が実らず大飢饉が襲っていた。そんな時中津川と呼ばれていたこの恋瀬川にかかる中津川橋が大破して通行できなくなった。困った土地の庄屋達が何とか復興する良い案を協議していた。この時の協議で何とか上役人の関心を持ってもらい藩に橋の架け替えを願い出るのに川名を歌枕で有名な「恋瀬川」にしたというのです。この話も川名同様イキな気がしますね。(2007.12.16追記)

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