TOP >>

▼常陸、茨城の語源 (続き)


以下に語源とは関係がありませんが、参考までに筑波大学学長であったノーベル物理学賞受賞学者の江崎玲於奈博士が1995年霞ヶ浦での世界湖沼会議での記念講演で講演された内容に茨城が紹介されていますのでここに抜粋します。全文はこちら

 天気が良ければ、機上から俯瞰する霞ヶ浦は大へん美しく人の心を捉えます。成田空港は霞ヶ浦の南、約25・に位置しますが、滑走路はほぼ南北に走っていますので、北風のとき、飛行機は筑波山を目指して飛び立ちます。アメリカ便の場合には、すぐに右旋回してLake pointsと呼ばれる霞ヶ浦(西浦)の南端をかすめて、鹿島灘に抜けますので左側に、ヨーロッパ便の場合にはそのまま北に向かいますので右側に、霞ヶ浦を眺めることが出来ます。

 人間は古来、自然との深い結びつきのもとに生活して来ました。縄文時代の狩猟採集生活の名残りが貝塚です。霞ヶ浦周辺にも貝塚遺跡が多く、それを線で結ぶと昔の海岸線が想定できるといわれています。特に、美浦村の陸平(おかだいら)遺跡は面積十数ヘクタールに及び日本最大級の貝塚です。
 弥生時代は縄文時代に続くもので、紀元前3世紀頃、大陸から水稲耕作の進んだ技術の流入と共に始まりました。弥生時代は3世紀頃に終りますが、日本の農耕社会は発展し、古墳時代と呼ばれる時期を迎えます。霞ヶ浦周辺にもこの時代に築かれた多くの古墳が残され、特に石岡市高浜の舟塚山古墳は全長186mの前方後円墳で極めて大型のものです。古墳の風習は7世紀の大化の改新(645年)の頃まで続きました。

 ところで、4、5世紀になると大和政権が日本本土の大半を統一し、7世紀にはいると次第に中央集権国家として律令体制を固めていきますが、蝦夷の住む東北地方、陸奥国は未だ制圧することが出来ませんでした。従って、この陸奥国と境を接する常陸国は大和政権にとって辺境の重要な戦略拠点としての役割を演じました。大和政権は農業の生産性向上を目指し、水稲耕作の推進政策をとってきましたが、この地方は農耕地として開墾できる土地が広く、また、海や山の幸にも恵まれ、その有様は奈良時代、8世紀前半に編纂された「常陸風土記」によって窺うことが出来ます。敢えて比べますと、19世紀以降、カリフォルニアはアメリカの西のフロンティアとして繁栄して来ましたが、古代、この常陸国は日本の東のフロンティアとして大いに活況を呈しました。更に付言しますと、現在のつくば研究学園都市はサイエンスのフロンティアに挑戦している一大拠点だといえるのではないでしょうか。

 ところで、その頃の霞ヶ浦は入江であり、「常陸風土記」には「流海(ながれうみ)」、「万葉集」には「浪逆(なさか)の海」という名で出ております。平安時代には鹿島灘の「外の海」に対し「内の海」と呼ばれて、その明媚な風光がめでられています。鎌倉時代になって詠まれた歌の中にはじめて「霞の浦」という言葉が表われ、これが「霞ヶ浦」の名の起こりでしょう。その頃の代表的な和歌は、例えば「春がすみ霞の浦をゆく舟のよそにも見えぬ人を恋ひつつ」(藤原定家)、あるいは「ほのかにも知らせてしがな東なる霞の浦のあまのいさり火」(順徳院)などです。

 どの湖も移り変りの歴史を背負っていますが、特に、霞ヶ浦はここ数百年の間、激しい変化を遂げ、現在の姿になりました。湖底の推積物にはその歴史が刻まれており、霞ヶ浦の淡水化(あるいは海水と淡水が混じる汽水化)は僅か200年前、18世紀だということを教えてくれます。

 勿論、この霞ヶ浦の変遷には人為的なものと自然の仕わざ、この両者が関係しています。前者としては江戸時代初期の利根川東遷工事が考えられます。徳川家康が江戸に入府したとき、江戸周辺の水害防止、湿地の農地化、水運整備などのため、当時、江戸湾に注いでいた利根川本流を旧常陸川を通じて銚子へ流す大工事を行いました。また、後者、自然の仕わざとしては、浅間山(1793年)や富士の大噴火(1707年)により大量の火山灰が関東一円に降り、それらの土砂が利根川などの河川により下流に運ばれ、霞ヶ浦の出口付近一帯を埋め立てたのが淡水化の始まりです。また、このため、常陸利根川の流水能力が減退し、霞ヶ浦周辺はたびたび洪水に見舞われています。勿論、最近、さまざまの治水工事が行われ、洪水氾濫を最小限に留める施策が講じられていることはよく知られる通りです。

 言うまでもなく、霞ヶ浦はその周辺の人間活動の影響を強く受けます。前述の「常陸風土記」が書かれた奈良時代、国府は現在の石岡市に設けられ、国府の役所、国衙(こくが)を核に東西、南北それぞれ約1・四方、ミニ平城京が建設されました。計画された人工の町という意味ではつくば研究学園都市に似ています。国衙は939年平将門によって焼き払われた歴史がありますが、江戸時代以前まで常陸国の行政の中心地でした。この地が国府に選ばれた理由としては、霞ヶ浦の水運の便に恵まれていたこと、筑波山を望む景勝の地であったことなどが考えられるでしょう。

 ところで、石岡市の北には千人位が働いていたと見られる大規模な鹿(か)の子遺跡があり、8-9世紀、蝦夷征討のための鉄製武器などを生産した工房群跡と考えられています。同遺跡から出土した漆紙文書によると、当時、常陸国の人口は約20万、国府には約2万の住民がいたということになっております。現在の茨城県(約6000・)は、常陸国とほぼ同じところを占めており、最近の総人口は約300万人ですから、1200年の間に15倍位になった勘定です。人口密度にすれば、1平方・当り33人から500人に増加しました。一般的に、人口増加はエコロジー(自然環境)の悪化に結びつきます。 歴史を調べることにより、人間が過去に冒した過ちからさまざまのことを学ぶことができます。過去において、森林の伐採、野鳥獣の乱獲、土地の不毛化など、取り直しのつかない状態まで、生態環境を破壊したため、終焉を迎えた文明が数多くあります。