■長楽寺の天狗 狢内(むじなうち)といえば足尾山麓の辺地、文字通りの山村であるが、そこには由緒ある薬師堂もあり、それを守護する仁王像もあって、昔から信仰の盛んな部落であった。元は、今の薬師堂のほか、長楽寺という道場があったが、今は、その敷地も堂宇もなく、寺にまつわる天狗の話だけが残されている。 いつの頃やら時代はつまびらかではないが、岩間の愛宕様や、遠江の国で有名な津島の祇園が出てくるのを見ると、そう古い時代でもあるまい。長楽寺は修験寺であったのか、老母とその子である若者が住んでいた。若者は昼間は家に在って農事のかたわら、老母に仕えて孝養につとめ、夜になると近くの足尾山、加波山から筑波山の方面まで踏破して修行をおこたらなかった。若者が祈祷すると何事でも願いがかなうというので、遠くからも多数の信者が来てそのご利益をいただいた。ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩、老母は若者に語りかけた。「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、慾をいえば日本一の祇園だという明日の津島の祇園を見物したいと思うが、津島というところは唐、天竺へ行くほど遠いというから、諦めるほかはないね」と笑談をいった。若者はしばらく考えていたが、「お母さん、津島はそう遠くはないよ、今から出かければ夜の明ける頃までには着くから行って来ましょう」とすぐ行くことになった。若者は、白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。老母は若者が、また私をからかい半分に、その辺を歩くのだろうぐらいに考えて、背にしがみついているうちに眠ったかして何もわからなくなってしまった。 「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました、老母は眼の前の光景に驚いた。今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと、老母にはまったく夢であった。その日も暮れ、老母はまた目かくしをされて若者の背に乗ったが、いつの間にか眠ってしまって、どこをどうして帰った知らない。気がつくと朝日が一ぱいに射している長楽寺の庭であった。若者もさすがに疲れたと見え、「お母さんわしは今日一日ゆっくり寝るから部屋へは決して来ないでくれ」とそのまま奥に入り、昼になり、夕刻になっても起きて来ない。心配した老母は来てはいけないといわれた奥の仕切りをそっと開けて見ると驚いた。大の字になって高鼾をかいている若者の肩から、大きな羽根が座敷一ぱいに広がっていて、天狗そのままの姿であった。若者は、がばっと起き上がって、腰をぬかしている老母に、「お母さん、あれほど言ったのに見たな、もうお目にかかりません」というより早く見えなくなってしまた。 ここは岩間の愛宕様、霜月14日の夜の悪態祭である。宵のうちから急な石段を登ってくる参詣人に、地元の若者どもは、口悪の限りを尽くして悪態をいう。それを覚悟の参詣人も、負けずにやり返す。やがて深夜の丑の刻、無言の行に入る前に、恒例どおり身を浄めた12人の若者が奥の院に鎮座する12天狗に、一膳づつの神饌を供え、終わったとき奥の院から「長楽寺分が足りない」との声があった。驚いた神主は、さらに一膳を供え13膳として無事祭りを終ったというが、これは狢内の長楽寺の若者が、天狗となって家出をし、愛宕山奥の院の12天狗の仲間に加わったのであろうと伝えられる。いまでも何かの振舞のとき、膳部が足りない場合「ここが長楽寺だ」というと、この辺の人は一膳不足という事になっている。今、狢内長楽寺跡の道傍に、「天狗の腰かけ石」があり、もし、それにのると災があるといって、誰も乗る人がないという。 八郷町誌(昭和四十五年発行版)より
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